立川、達川、立河、舘川、多知川……
午後8時半、思いつく限りの『タチカワ』を書き出してみると、あまり思いつかなかった。おまけにどれもお兄さんにはしっくりこなくて、本当にタチカワさんなのかすら疑ってしまった。
机の上にペンを投げ出す。一体私は何をやっているんだろう。ふっ。鼻で笑う。
携帯の画面が光り、同時に本体が震動しだす。それまで部屋はシーンと音がつくほど静かだったからちょっと驚いた。電話で話すような気分ではなかったのに、画面に表示された名前を見て、私の指は応答ボタンを押していた。

「……もしもし望ちゃん?」
『何よなつみ、元気ないわね』
「いや、ちょっとね……私何やってんだろうって……」
『なにそれ、すごくめんどくさそう』
「おっしゃる通り」

電話の主は加古望、私の友達だ。同い年で、何がどうして仲良くなったんだかよく覚えていないけれども、とても大事な友達である。

『ねぇ、それより今日、っていうか今からなつみの家に行ってもいい?』
「望ちゃんが作るご飯大好き!いいよ!」
『ぶれないわねあんたも……まだ夕飯食べてないの?ごめん今日は彼氏が〜って聞ける日はいつ来るのかしら』
「ごめん望ちゃん、私にそんな日来ないと思ってて。今すごいぐさっときた」

じゃあ適当に材料買ってから行くから鍵開けといてよ、という言葉は電話口の向こうの女神の口から発せられている。いや、違う、その言葉を発する者こそ女神なのだ。つまり望ちゃんはまごうことなき私の女神。すばらしい。
望ちゃんは、ここ三門市の界境防衛組織ボーダーというヒーロー的存在の組織の中でもかなり強い、A級の加古隊を率いる隊員、らしい。実際にお仕事をしているところは見たことがないから、私にはいまいち、隊員だ。と言い切ることができない。
そんな凄い人と、その凄さを身で感じたこともない私なんかがなんで友達なのか、不思議に思うことがあった。それを言うと私のビーナスは、私がボーダーだからって理由で離れていかないでとなんとも可愛いことをなんとも格好いい真剣な顔で言い放ったのはよく覚えている。

『差出人:望ちゃん
件名なし
聞き忘れてた。晩ご飯、何かリクエストあるの?』

このメールには、なんでもいい任せると返信した。となると、たぶん炒飯だろう。
望ちゃんはボーダーの仕事も大学もあって大変なのに、私ったら。カーペットに体を横たえる。ラックから雑誌を引っ張り出して何枚か捲っても、先に進もうとは思えず、結局その雑誌も投げ出してしまう。
そうなると何もすることがなくなって、そんな自分に嫌気がさした。襲ってきた睡魔に身を委ねてしまう自分にも。
意識を手放す直前に思ったのは、お兄さんはずるいなあ、ということ。


「なつみ。起きて」
「……は」
「ほら、晩ご飯できたから」
「わあん!望ちゃん!」
「はいはい、危ないからね」

目を開ける。予想通り炒飯の皿を片手に持った望ちゃんが居たから思わず飛びつこうとしたが未遂に終わった。
望ちゃんの作るご飯はたまに冒険心と不思議なものが入っている。それでも美味しい。私の味覚は至って正常、な、はず。炒飯をもそもそと口に運んでいると、不意打ちで、短くも綺麗に整えられた爪にデコピンされる。

「な、なに、望ちゃん。私いただきますって言ったよね?」
「そうじゃないわよ。もっと美味しそうに食べられないの?」
「あ……ご、ごめん」

美味しいなぁと思ってはいたのに、心ここにあらずだった。自覚はできた。さすが望ちゃんだ。見抜かれていた。
そういえばお兄さんは美味しそうに食べる人だよなとふっと考えて、もはや私が私じゃない。思考が完璧にジャックされている。我ながら情けない話だ、あんなこと滅多にないから舞い上がってしまっているのだ。

「……?何これ」
「え?あ、」

望ちゃんが『タチカワ』メモを手に取って見ている。綺麗な眉根が寄る。普通の人は何パターンも名前の漢字を考えたりしないことぐらいわかっているから、望ちゃん、あまり見ないでくれないか。
普通の人は、ここまでしない。
あのお兄さんは、自分が働いているカフェによく来るお客さん、というだけなのだ。事務的なもの以外で、まともな会話をしたこともできた試しもない。名前を知り合ったのだって、向こうは私の名札を見ただけの話だ。私だけがお兄さんの名前をブルーノに聞いて知るのは後ろめたく感じたように、お兄さんもまた、そう感じたがゆえに、私に自分の名前を教えてくれたのではないか。どうせしょっちゅう来るのだからという思いもあったのかもしれない。どちらにせよこれは何かの始まりでも鍵でもないのだ。
考えれば考えるほど何が正しいかもわからなくなってきて、お兄さんの馬鹿、ずるい、と心の中で理不尽極まりない悪態をついた。

「これ、読みは全部タチカワ?」
「う、うん、あの、深く突っ込まないで……」
「私の知り合いにもタチカワっているわよ。まぁこの中には無い漢字書くんだけど」

心に痛みのような衝撃が走った。
望ちゃんが隅っこに書き足した字。
太刀川。
―――お兄さんにぴったりだと思った。
それかどうか定かではないけれど、せっかく名前を教えてくれたのだ、タチカワさん、と話しかけてもいいだろうか。どういう字を書くのか、とか、聞いてもいいだろうか。さすがにそこまでは、しないのだろうか。明日シフトが入っていないことを、少し残念に思った。
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