ブルーノがはしゃいでいた。女の子の名前を聞けたんだそうだ。いい名前だとか、似合っているだとか、ベタ褒めしていた。それを本人に言えたのかどうかは謎だ。
私の悪口もどこ吹く風のブルーノが大事そうに握りしめている紙ナプキンには、かわいらしい文字で書かれた確かにかわいらしい名前がちょこんと居た。なるほど庇護欲を煽りそうな、小柄なあの子に似合う文字である。

「そのままメアドでも聞けばよかったのに」
「がっつきすぎて引かれたらおしまいじゃん!今のおれにはこれで十分なの!精一杯なの!」
「さいですか」

やたらに女々しいやつになってしまったブルーノは適当にあしらって、ホールスタッフの制服のタイをほどく。外した名札にはなんの変哲も無いゴシック体で秦とそっけなく書かれている。
私はお兄さんの名前も知らない。今日、オレンジが好きなのかもしれないという不確定な項目が追加された程度だ。これはブルーノのような気持ちではなくって、単なる興味による観察日記みたいなものだとは自認しているから、なかなかアクションを起こせなくても無理はないと思うが。私に足りないのは甘酸っぱさか。

「なつみちゃんリアクション薄いなぁ」
「スゴーイヨカッタネー」
「そっちがそんな態度取るならお兄さんの名前教えてやんねえぞ!」
「えっ」
「えっ」
「……いや別に知りたいとか言ってないじゃん」
「うわ!思いの外冷めてた!」

今のブルーノはテンションが上がりすぎていて話すのにカロリーを消費しそうだ。
後ろめたいような気持ちがあった。こちらばかりが相手を気にして、特に必要になることも無いであろう名前までも勝手に知ってしまうのは、プライバシー的にどうなのだろうと。お兄さんのことを恋愛感情を持って見ていないのは自分でわかっているはずだ。

「今日大きな一歩前進だな!おれすげー!」
「はいはい」

こちらも制服の、黒で揃えたギャルソンエプロンとオッドベストを脱いで、ロッカーに突っ込む。腕時計は19時前を指している。ブルーノはちゃんと閉店後のホール掃除もレジ合わせもまじめにやった上でこれだから、まぁ、このギャップ(と呼べるかわからないけど)をどこかでちらつかせればいいんじゃないかな。とか言おうものならテンパって何もできなくなるだろうから言わないでおこうと思う。
スタッフ控室を出て、洗った食器を片付けるキッチンスタッフたちにお疲れ様でーすと声をかけると、お疲れ様でしたーと返ってくる。キッチンからカウンターに出ると、珈琲豆の消費や仕入れをメモするマスターが振り向いて、目が合った。

「お疲れさま」
「お疲れ様です」
「また明日ね」

再び珈琲豆の陳列する棚に向き直ったマスターの背中は、憂いのような哀愁のような、アンニュイに似た何かを感じさせた。それが何によるものなのかはわからないけれど、夕方はそういう気持ちになるのは、なんとなくわかる。電気をつけると明るすぎる、つけていないと少し暗い、何かしようにも遅すぎて、晩ご飯にも早すぎる、手に余る時間帯だ。
ちりんちりん、ドアの上につけられたベルが、夕間暮れの空気に響いて吸い込まれた。


あ、電車行っちゃった。
乗るつもりだった電車が、重みのある音を立てて、家路につく人を送り届けていくのを、駅の階段から見届ける。改札を出るとこちら側のホームはガランとしていた。当たり前だ、つい今しがた電車が去っていったのだから。
しばらく待てばいいだけの話だし、特に早く帰りたいわけでもない。おとなしく待つことにする。誰も座っていなかったのか、ベンチはひんやりしていた。太ももがぶるりと一瞬震えた。
10分ほどぼーっと向かい側のホームを眺めて人間観察をしていたら電車が来て、人はすっかり居なくなった。我に返った気がした。腕時計を見やると、次の電車まではあと10分ある。
そのとき、私の名前を呼ぶ声が、ホームで鳴る盲導鈴に掻き消されながら聞こえた気がした。かなり小さい声だったはずなのだけれど、優れているはずはない私の聴力がなぜか拾ったその声に振り向く。

「……!」
「あ、はは……合ってた?秦さんで」

心臓が止まるかと思った。
いや、むしろ止まったと思う。一瞬止まってまた動き出した。今度はやけに速い。
お兄さん。
眉を下げて笑っている。

「あ、合って、ます……!」
「よかった。間違ってたらどうしようかと」
「え、で、でも、どうして……」
「あ、名札で」

なるほど名札で。でも聞きたかったのはそっちではなく、いやそっちも聞きたかったが、どうして私に話しかけてくれたのか。それが気になって仕方がない。そういえば今日ブルーノがお兄さんと少し話したと言っていたから、それがいい感じの後押しになったのかもしれない。どうしたブルーノ絶好調じゃん、と思うや否やなぜか少しだけむかつくダブルピース笑顔が浮かんだ。撤回。
私は足りない脳みそで何を話せばいいか考えるものの、こんな時に限ってどうでもいいことしか出て来ない。

「太刀川です」
「え」
「俺の名前」
「タチカワ、さん」
「です」

ああ、なんてよく笑う人だろうと思った。私は絶対うまく笑えていないのに。
ごごん、と音がして、電車が迫った。空気が抜けるような音とともに扉が開く。私はベンチに座ったまま、間抜け面でお兄さんの顔を見ていた。ここでお兄さんが何か言ってくれたら良かったのに。結局そのあと何も言わないまま、私だけが電車に乗った。
電車が進み出して、お兄さんは案外すぐに、私を乗せたそれから目線を外した。もしかしたら目が合うかも、会釈でもするかも、そんな気持ちがあったのだろう。お兄さんを―――タチカワさんを見ていた私は、ちょっと恥ずかしくなった。
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