開店前に作り置いていたオランジェットは、既にココットに入れられていた。マスターの仕業だ。マスターを見やるとウインクされた。
うちのオランジェットはオレンジピールではなくて、皮付きの輪切りのオレンジだ。ケーキには使えない部分、余ったチョコ、勿体無いからというのがマスターの口癖。砂糖漬けにしたオレンジをリキュールに浸して、湯煎で溶かしたチョコレートにくぐらせて、冷やして固める。シンプルだけど、柑橘とチョコレートとリキュールの三重奏の香り、苦味があるピールと甘いチョコレートのコラボがたまらない。私が好きなお菓子だ。
お兄さんは気に入ってくれるだろうか。
よく冷えたココットを手にとってジッと見つめていると、マスターがニコニコ顔をひょいと出した。

「それ、オレンジだけじゃなくてレモンピールも入ってるんだよ。チーズケーキ作ろうと思って、レモン買ってたんだ」

言われてよくよく見ると、確かに、瑞々しい橙色と焦茶色の輪切りのオレンジだけでなく、スナック菓子のようにも見える小さな欠片がいくつか入っていた。こっちはピールだ。

「わざわざこっちも作ったんですか」
「皮そのまま捨てちゃうのも勿体無いじゃない。早く持っていきなよ。コーヒー飲み終わっちゃうよ」

その言葉に慌ててココットの中にココアパウダーをまぶして、キッチンを早足で飛び出す。
お兄さんはまだ眠そうな目をしてアメリカンを口にしていた。アメリカンはブレンドよりカフェインが多いから、目は覚めると思う。
片方の手には何かの書類が数枚あって、ノートパソコンを開いていた時もそうだったが、何をしてるんだろう、大学かなお仕事かなといろんなことを勝手に考えてしまう。大学に行かずこのカフェで働いている私とは、歳が近くても話も合わないような気がして、軽率に話しかけることははばかられた。あくまで私はカフェスタッフであってお兄さんの友達じゃない。

「失礼します」
「え?」

私が声をかけるとお兄さんはぱっと顔を上げた。目からは眠気が多少飛んだような、驚かせてしまったか。ココットをテーブルに滑らせると、お兄さんは目をぱちぱちさせる。それの所作が子どもっぽくて、つい笑いそうになってしまった。

「俺、頼んでないけど……」
「当店からのサービスです」
「……いいんですか?」
「もちろん」

サービスだとわかると訝しげな目から一転、きらきらした瞳で、半分がチョコレートにコーティングされた輪切りのオレンジを見ている。素直な人なんだなと、口元が緩んだ。こんな素直な感覚を持ったまま大人になれる人が、ちょっとだけ羨ましい。
お兄さんは骨っぽく太い指でココットを自分のほうに寄せる。それからまた笑った。私は受け取ってもらえて心底ホッとする。押し付けがましいかなと思ったのだ。世界は案外、私のような人間にも優しいらしい。お兄さんに本日二度目のごゆっくりを告げてその場を離れた。

「喜んでもらえた?」
「たぶん」
「それはそれは」

マスターのたまに行き過ぎな良心と、それを補って余りある人望と商売上手さで成り立つようなこの店でも、普段の私はサービスを頻繁にはしない。加えて、それが男の人なら余計に。マスターは、私がお兄さんを気にかけるたびに、慈しむような楽しそうな笑みを私に向ける。
マスターとも長い付き合いになるから、孫か娘の成長を見守る気分なんだろう。いや、私はあのお兄さんのことが好きとか、そんなのではないし、そもそも恋愛に関して何か話した覚えはないんだが。
マスターがまかないを作りながら弾んだ声で言った。

「あの子、オレンジ好きだと思うんだ」
「へ、へえ?」

あのこ、というのが誰を指しているのか考える。そうか、お兄さんのことかと、存外すぐに思い当たった。マスターからしてみれば、お兄さんくらいの年齢は、あの子なんて子供扱いみたいにして呼べるのだ。

「オレンジのケーキもジュースも、よく頼んでると思わない?」
「……まぁ言われてみれば……」
「サービスをオランジェットにしたの、無意識だったでしょ」
「はい、いや、朝仕込んでたし……」
「ふふふ」

いまいち何が言いたいか伝わってこない。意味ありげに含み笑いをするマスターは見てくれは紳士なのに、今では久しぶりに会った親戚のおじさんのような、下世話な話が好きそうな雰囲気である。
じゃっといい音をさせて、マスターが操るフライパンの上でパスタが踊る。まかないは簡単なものだけれど、いつもそうとは思えないぐらい、売り物のように美味しい。

「いいねえ、やっぱり」
「マスター意外とこういう話好きですよね」
「僕くらいの歳になるとね。まあこの歳になってもそういった感情がないわけじゃないんだけど」
「え、そうなの?」
「でも若いってだけで、その感情の輝きがまるでちがうんだ。明るくて、パワーに満ちていてねえ。若いってのはすごいことだ」

私は何も惚れた腫れたの話をしたんじゃないんだけどなあと思いながら、マスターが何か、若かりし日々に置き忘れてきた何かに想いを馳せるような遠い目をしていたから、私はなにも言わなかった。

「身体が心の言う通り、思うように動く時期なんてあっという間だから、ぜんぶの気持ちを大事にしなさいよ」

湯気を立てるスタンダードなナポリタンが、フライパンから皿に移る。菜箸を握るマスターの手は、今までに生きてきたすべてを凝縮しているかのように見えた。

「はい、お昼ご飯」
「……全部なんて、手が回りませんよ」
「ん?ああ、そうだね、そうかもね」

皿を受け取ったとき、レジで卓上ベルが鳴った。お会計を待つお客さんだ。
急いでレジに向かうと、お兄さんだった。
打ち間違いのないようにレジを打つ。目線は自然とお兄さんではなく手元に向いた。お釣りを渡して、あとはありがとうございましたと言うだけ。でもお兄さんはお釣りの小銭を手ごとポケットに突っ込んだあと、なかなか立ち去ろうとしない。

「……あの」
「え」
「あれ、美味かったです」
「あ、そ、それなら……よかったです」
「また来ます」

それだけ言って、お兄さんは踵を返した。
あ、なにか言わなきゃ。
また来ますと言ってくれた。それはそうなのだろう、今まで通り来てくれるのだろうけれど、ありがとう以外になにか言わなければ、大きな何かを逃してしまう気がした。

「お、お待ちしてます!ありがとうございました」

振り向いた顔は一瞬驚いて、それから笑った。
木曜日のお昼過ぎ。オレンジが好きな、金欠のお兄さんは、お昼ご飯はどうするのかな。
謎の緊張冷めやらぬままお昼のナポリタンを食べた。いつものように美味しかったと思うが、正直、味はそんなに覚えていない。
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