「あの、お兄さん……」
「はい?」

お兄さんは、私がそう呼んでも、もう一度その名前を告げることはなかった。本当は忘れていない名前、太刀川さん。
言いたいことのひとつも言えなかったように思う。
言いたかったはずの言葉を飲み込み、オレンジ好きなんですかと聞こうとして、店員として自分から近づこうとするのはやめようと、やっぱりそっちも飲み込んだ。

「……すみません。なんでもないです」
「ここのカルパッチョうまいですね」
「私、カルパッチョ久しぶりっていうか、初めて食べたかもしれません」
「俺やっぱりマスターのうどん好きです」
「マスターに伝えておきますね、またぜひ」
「はい」

私は、お兄さんと話すとき、喉が半分くらい閉まったような声を出していることに気がついた。
それからは、頼んだものを二人で平らげて、割り勘して、駅で別れた。
お兄さんは電車に乗らずに私を見送ってくれた。いつかとは違って、ずっと電車を見ていた気がする。よく考えたら、ボーダーなのだから、本部基地に近いところに住んでいるのかな。
電車は帰宅ラッシュの直後あたりで、まあ、最中に比べれば全然かわいいものではあったけれど、それなりに混んでいた。ヒールを履いた足がなぜかいつもより疲れていたからか、奇跡的に空いた席まで移動するのも面倒臭く、扉近くの手すりに力なくつかまって揺られた。

(……食べ過ぎた)

胃の中に収めた、日頃食べつけない鮭とばとアヒージョとカルパッチョが、電車に揺られて軽度の吐き気を催す。
日頃食べつけないそれらを、まさかお兄さんと食べた、なんて。
まだ、にわかには信じられなかった。夢のような時間と形容できればすてきだけど、目覚めは、少しばかり心地よくない。

太刀川という名前と、A級のボーダー隊員であることぐらい。私は、それぐらいしか知らないのだ。お兄さんがボーダー隊員でなければ、私はどうしていたのか。こんなことを考えるのは、本当に、もう何度目になるんだかわかりゃしない。すっぱり見切りをつけるでもない自分にそろそろ嫌気がさす。
もう長いことこの性格と付き合ってきたけれど、好きになれない。いや、好きになろうとするところから間違っているのかもしれないのだけど。
一人暮らしの部屋は当たり前のように暗くて、もちろん迎えてくれる人がいるでもなく、こういう時だ、一人暮らしは向いてないなと思うのは。こんな風に、どうしようもなく切なくなる時がある。
割り勘しておいてよかった。


次の日、割れるような頭痛で目を覚ました。

「いっ……たあ」

頭の粉砕を片手でなんとか抑えながら、わずかにぼやける視界でテーブルを捉えると、いつもなら絶対飲まないビールの缶が転がっていた。それも一本だけではない。
記憶が曖昧だが、どうやらあの缶を開けたのは昨夜の私らしい。殴られたりしたのが原因でなくてとりあえずホッとしたけれど、酒は元から強くない上に、苦手なビール。どうかしていたとしか思えない。あんな気持ちでビールなんて飲んで、きっとちっとも美味しくなんてなかったはずなのに、なぜ一本では飽き足らず二本も三本も開けたんだろう。お兄さんとですら、飲まなかったのに。

「そもそもなんでうちにビールなんか……、……望ちゃんがこないだ置いてったのか……」

望ちゃんはいつもビールの缶を気持ちいいくらいぐいっと呷る。それが、すごく似合う。
ああ、酒くさい。私はおとなになったばかり、それもまだ、年齢だけが。とはいえ、子どもだ、とも呼べない。いっそこの世のすべて私には似つかわしくない。
目覚めは最悪。


『はい、もしもし?』
「あ……おはようございます、マスター」
『おはよう。どうしたのなつみちゃん、今日はお休みするの?』
「いえ、あの、少し遅れるかも……」
『そう。今日はお客さんも多くなさそうだから、慌てないで、気をつけておいで』
「はい、ありがとうございます、それじゃ」

一人暮らしをする中で、望ちゃんや、マスターや、ブルーノや、ヘレンちゃんなんかとの繋がりは、とてもありがたい。一人なのには変わりがなくて、だからこそ支えられているのを痛感しては頭が下がる。自分が誰かの支えになれているなんて実感はほとんどなくて、感謝はまだしもそんなことはいちいち考えなくても生きていける。
誰かの心に生まれる感情の種になっているのが私なのだとか、その起伏のもとが私なのだとか。そんなこと気にしなくたって、世界は今日も回るのである。たとえ私が成長しなくたって、そこで足踏みしてたって、世界は待ってくれないのである。
だけど私のためにそこにいてくれる、私を待っていてくれるような人がいたとしたら、頑張れる気がするから、進まなくてはならないのである。その人がどんな人かも知らないまま、私は今日、進めるのだろうか。
子どもとおとなの中間で足踏みをしている私は知らない。その人が既に、私のそばにいる人かもしれないってこと。もう既に、待ってくれているかもしれないんだってことを。
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