丸められた大きな背中。お兄さんは首だけこちらに向けた。私の姿を確認すると、にっこりとした。読めない瞳が細められて、ますます、何を考えているかわからない。
別に、お兄さんの考えていることがわからなくたって何もおかしくないし、だからどうしようともしなくていい。

「……なんか、久しぶりです」
「そうですね。お兄さん、前ほど店に来られなくなりましたもんね」

私がお兄さんと言ったとき、一瞬だけ、お兄さんの眉がぴくりとした。それにも動じないくらい、不思議と私は穏やかだった。椅子にゆったりと腰を落ち着ける。

ただの店員と客、その言葉を、何度頭によぎらせただろう。そんなことを考えたのはお兄さんが初めてだった。古いレシート裏に書かれた、『終わったら裏手のバーに来てください』なんてまるで靴箱に入っていそうな文面。うわ、ちょっと優しくしたから調子乗ってる、何この客気持ち悪い、って無視する人もいると思う。私はその、無視する人の中には入らない人らしい。もしかしたら私は防犯意識が低いのかもしれない。
シフトを遅くまで組んでいることを知ってか知らずか、カフェでもファミレスでもなく雰囲気がいいバーへのお誘い。お酒は、飲まなければいいだけの話。

「俺のこと気にかけてくれてたんですか」
「目につくんですよ、背が高いから」
「なんだ、そうか。そりゃあ入り口のドアに頭ぶつけてる男がいたら覚えますよね」

私はその時のことを思い出して、つい吹き出した。
初来店だったと思う、お兄さんは店の外観に気を取られていたのか、ドアなんて見えていないようにバンと大きな音を立てて額をぶつけていた。あの時はただ驚いたが、そのあとお冷を持っていったブルーノはものすごく笑いを堪えていて、「あの人めっちゃケロッとしてた」とか言うもんだから私もつい笑ってしまったのを覚えてる。あの日はチョコレートのズコットをアメリカンとセットで頼んでいたっけ。お会計の時、おでこ大丈夫ですかとは聞かなかった。
思えば最初から親近感を持たせる人だったな。

「なんか飲みますか」
「遅いし、私はソフトドリンクがいいですね」
「俺もそうしよう。酒強くないんですよ」
「へえ、意外。ザルだと思ってました」
「全然。そもそもあんまり好きじゃないし」

私もお兄さんに同意。
たくさんのボトルが並ぶせっかくのバーで、私はウーロン茶、お兄さんはジンジャーエール。お酒は飲まないのに、鮭とばとアヒージョをおつまみに注文した。
ほどなくして注文した4つが運ばれてきて、時々ポツポツと話し、途中でカルパッチョを追加して、料理に舌鼓、ソフトドリンクで舌休めしながらしばらく過ぎた。
アヒージョの海老を口に放り、私は、私たちはなにをしているんだろう、とふと考える。けれどまあ、考えないほうが得策かと思った。家でひとり、冷凍したご飯を解凍してインスタントの味噌汁と食べるよりは有意義で心地いい時間だったから。

「秦さん」
「……はい?」

はじけるような海老の身堪能タイムを、慌てて飲み下して、打ち切る。もしこれがブルーノで、なつみちゃん、と呼ばれたとしたら、私は最後までしっかり味わってから返事をしたはず。
お兄さんは私の名前を呼んだわけじゃない。苗字だ。それなのに私は味わう暇もなく半分くらいは噛まないまま飲み込んで返事をしたのは、親密度によるもの?それとももっと違う何か?どっちであってほしいんだろう。

「忘れちゃいましたか、俺の名前」

息が詰まった。
いつも、いつもそうだ。お兄さんと一緒にいると、いつも息苦しくなる。
私が忘れかけていたところを呼び起こしたり、触れられたくないところにさりげなく触れたり、きっとそれはお兄さんは無意識でやっているんだろうけど、私はいろんな意味でどきりとする。
答えあぐねていた。ごめんなさいと眉を下げて申し訳なさそうな顔ができればいいのに、できない。お兄さんの名前は、忘れていなかった。だって望ちゃんに不審がられるぐらい、あんなに、……ああ、どうしよう。
お兄さんはへらっと笑った。

「まぁ、最近あんまり来てなかったし……客の名前なんて、そうそう呼ぶ機会もないですし、ね」
「……すみません」

やっとのことで声を絞り出す。変な沈黙がすぐそこまでやってきていたので、私はそれを蹴り返すように、無理に明るく取り繕った。

「で、でも、あの、お兄さん、私の名前、覚えてくださって……」
「ああ、ほらあの、貰ったから。名前、書いたやつ」
「……取ってるんですか?あんなの?」
「あんなのって。でも秦さんも捨ててないでしょ、今日俺が渡したあのレシート」

私はまた言葉に詰まる。お兄さんは、「あれ、持ってない?だとしたら超恥ずかしい」とまた笑った。図星だから黙っているのに、そのことは察してくれたのか否か。
あんなの、というのは、私が名前を書いて渡した紙ナプキンだ。いつもより下手だった字の。

「た、確かに取ってますけど……あの、あれは、捨ててください」
「どうして。あれもう貰ったから俺のです」

捨ててください。
本音、とは、違う気がする。
結局私は、どうしたいんだ。
あいにく今の私一人で答えは出そうにない。きっと出てしまえば簡単なのに。
簡単、簡単だったとして、私はどうするんだ。
簡単なことさえ行動にできない意気地なし。
こんなに自分の気持ちを持て余すのはいつぶりだろう。お兄さんと一緒にいると、胸のあたりを掻き毟りたくなる。むしゃくしゃする。息苦しいのも変わらない。私たちは根本的に合わないのかもなと思った。だったらなぜ二人でいる時間を心地いいと感じてしまう自分がいるのだろう。
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