お兄さんに放り投げられた車のキーを片手でキャッチする女の子の、見た目とその動作のちょっとしたギャップに目がいく。会話の間に、くにちか、という聞きなれない単語が聞こえた。女の子の苗字だろうか、素敵な名前だ。
他のお客さんが去ったテーブルを片しながら、ドアを押して出て行く女の子に、ホールスタッフが合わせてありがとうございましたと声を上げる。
やはりお会計はお兄さん持ちらしい。金欠は解消したのかな。
食器を下げようとしていると、レジ打ちをしていたはずのホールスタッフ、ヘレンちゃん(あだ名。一つ年下)が、こっちに小走りでやってきた。もうお兄さんのお会計は済んだらしい。きれいに巻かれた髪はシュシュで結ばれていて、尻尾のようにぴょんぴょん跳ねた。
それに気が行ったこともあって、大部分はそのせいじゃないけど、お兄さんが店を出て行くとき、ありがとうございましたの声が小さくなってしまった。

「お客さんはちゃんとレジでお見送りしないと……」
「あ、あ、すいません。あの、でも、わたし、それどころじゃなくって」
「うん?」

よく見ると、ヘレンちゃんの小さな手に紙切れが握られている。当の本人は「えっと」とか「あの」とか言いながら、後れ毛をかきあげたりしていて、進まない。
食器のおかげでそろそろ腕が死にそうなのをこらえて待つと、どうやら意を決したらしく、口を開いてくれた。

「ええっと、これ、これなんですけど」
「もしかして、よかったら連絡ください的な?貰っちゃった?」
「違うんです」
「ええ?じゃあ何かな……」
「違うんです、これ、なつみさんに渡してくれって、さっきのお客さんが」

私かよ。
おずおずと紙切れを私に差し出す指先の小さな爪は薄いピンク色に塗られていて、ああ女の子だな、と、まともに整えたこともない自分の爪を思い出して切なくなる。
それにしても思わぬところで矛先を向けられたものだ。

「あの、これ、渡したほうがいいですか?もし面識なかったら、なつみさんを狙ってる不審者かもって」

真剣な顔をしたヘレンちゃんには悪いけど、思わず吹き出してしまった。不審者って。お兄さん、不審者って呼ばれてる。
だいたい、あんな可愛い女の子連れの人が店員を狙うなんて、と言うと、「なつみさんにこれを渡すためにあの子を先に車に乗せた可能性もあるんですよ」と返された。ふむ、なるほど。いや、それにしたって私なんて。とは、これ以上言わないでおいた。
内心めちゃくちゃに動揺している。
だってこの紙切れは、お兄さんから私宛だ。

端っこと端っこが大きくズレた状態で折りたたまれたそれは紙ナプキンではなく古いレシートだった。日付は少し前で、この店のだ。
ずいぶん貧相だけど、お兄さん個人から私個人宛に、初めて貰ったもの。
何が書かれているかわからないし、そもそも手紙かどうかもわからないし、何も書いてないかもしれない。開くのが少し怖いように思われた。
意気地なし。
美貌とか、可愛い声とか、素敵な名前とかでもなくていいから、ただ今は勇気が欲しい。
あいにくそんなものはどこにも売っていない。変わり者のマスターだってメニューには並べない。ちょっぴり脆くなっているメンタルは、自分の不甲斐なさを感じただけで涙腺を弛緩させた。じわりと滲む程度にあふれた涙を手で拭ったとき、私の手からはオレンジの香りがした。


「えっ」
「えっ?」
「な、なんでもない」

上がる時間になって、スタッフルーム。
かすかに震える指でレシートを開いたとき、私は間抜けな声を出してしまい、ブルーノが不思議そうな顔で私を見た。
いつもの倍速でタイをほどいて、エプロンを脱いで、ベストを脱いで、バッグを背負うように肩に掛けて、傍目に見ても大慌てで、スタッフルームを出る、ことはとりあえずかなわなかった。急いては事を仕損じるとは本当で、パイプ椅子に思いっきり足を引っ掛け、椅子ごと転んだ。ブルーノが吹き出す。急がなくてはいけないのに、弁慶でさえ泣いた部位をぶつけて、意気地なしの私が平気な顔をしていられるわけもなく。

「……すね打った」
「ちょ、なつみちゃん何やってんのダッサ!ブフッ!」

這うように起き上がって(という表現はいかがなものか)、巻き添えを食らって一緒に転倒した哀れなパイプ椅子も起こしてやる。
今ので一気に冷めたというか、目が覚めたというか、冷静になったというか。せっかくの勇気がくじけたというか。
いや正確には勇気ではない。衝動に駆られたがゆえの実に動物的な暴走をし、挙句すっ転ぶという事の顛末は成人女性にはあまり似つかわしくなかったな、と反省する。
一頻り笑ったブルーノは、息を吐いて、すねをゆるゆるとさする私に話しかける。

「どうしたの?らしくないね」
「私のせいじゃない」
「誰かのせいなの?」
「私のせい」
「どっち!」
「でも私悪くない」
「どっち?」

私は悪くないしお兄さんも悪くない。
だから、それを伝えに行かなくては。
ただの店員でしかない私が勝手にやったことに対して、いちいち反応してくれたお兄さんは、やさしい人だ。
お話がしたい。
これっきりとは言わないけど、今まで以上に仲良くするつもりもなく。
ただあの息苦しさが、癖になってしまったようで。

「じゃあ、また明日ね」
「足元気をつけるんだよ」
「うん」

実を言うと震えている爪先を鼓舞するように、できるだけ力強く、足を踏み出した。
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