姉は変わった人だった。
言葉ではとてもではないが表現できないほど様々な、特筆すべき要素を詰め込んだような人で、いまどきの歌はあまり知らないのに一昔前流行った曲や、日本語のはずなのに意味がいまいち汲み取れないようなものすごく古いぐらいの歌はよく知っている人だった。
俺たちとは違う世界を生きているみたいで、変わった人だと思いこそすれ、そんな姉をおかしいと思うことはなかった。


「鐘がぁボンと鳴りゃあサーァ、上げ潮ーォ、南サーぃさ…」

ある日姉は調子のいい唄を歌っていた。
幼心にそれがやけに面白おかしく聞こえて、もういっかい歌って、もういっかい、と何度もねだった。そのたび姉は呟くように歌った。何度も聴いたけど、うまく歌えなかった。難しい歌だった。もうずいぶん昔の話だ。

「…烏がとぉび出しゃあ、コラサノサ、骨があーるう、さーいさい、そのまたァ骨にサ…」

後から知ったが、落語に出てくる唄なんだそうだ。サイサイ節と云うらしいその唄や、かんかんのうなんてユニークな唄も、姉はねだるたび、嫌な顔せず歌ってくれた。なんてことのないものなのに、サイサイ節は弟妹たちも好きだった。自分の苗字にある鳥が出てくるからかもしれない。
未だにあの唄は、歌声は、再生するように思い出せる。けれども、姉ほどうまく歌えたことは、一度もない。


いつものようにまっすぐ家に帰ると、「おかえり」と出迎える重なった声に、懐かしい音が混じっていた。

「……おかえり」
「兄ちゃん変なの。自分が帰ってきたのに、おかえりだって」
「ただいまって言うんだよ、兄ちゃん」
「…だってよ?お兄ちゃん」

変なのー、ねー、とからかうように笑う弟妹と同じように笑う。弟妹に挟まれるようにして、当たり前のようにそこにいる姉。

「京介」

姉が帰ってきたのは久しぶりだった。
バイトをして、大学に行って、仕事をして、所帯を持って、実家に仕送りをして、三門ではないところで寝食している姉には、久しぶりに会った。

「おかえり、ただいま」
「…ただいま、おかえり」
「元気してたみたいだね」
「……今日、お義兄さんは?」
「仕事。私だけ帰ってきた」

こんな会話をできることが嬉しくもあり少し寂しい。一緒に暮らしていたら、元気だった?とはいちいち聞かない。変わらずにいられる人なんていないんだなと思うと、寂しかった。少しだけ。
その日は姉が夕飯を作った。昔から上手だった料理は今も上手だけど、味噌汁の味がちょっと変わっていた。


「姉ちゃん、あれ歌って、あの唄」

妹のその言葉に、俺は少しひやりとした。もう忘れてしまったかもしれないのに。姉は、知らないところで変わったのに。忘れていたっておかしくないのに。そう思う気持ちはあっても、忘れているはずがないとか、もし本当に忘れてたら本当に嫌だったから、聴けるなら聴きたい。やまやまだったけど、耳を塞ぎたくなった。

「あれって」

その言葉にまた冷える。昔、あれって言ったらあれで、あの唄と言ったらあの唄だった。

「鐘がボンと鳴りゃあサァ、」

思わず顔を上げた。

「上げ潮ー、お、南サーぃさい…」

涙が出そうになった。
その唄を長らく歌っていなかったのか、姉の声は変なところで裏返ったり、かすれたりしていた。
涙が出そうになった。なんでかはわからない。久しぶりだったからか、なぜかものすごく不安だったからか、味噌汁の味が変わっていたからかはわからないけど、別に理由がなくたっていいんじゃないかなと思った。

「烏がぁ飛び出しゃァ、コラサノサ、骨がァあーるゥ……え、えっ?」
「兄ちゃん?え、なんで泣いてんの?」
「……泣いてない」
「うそだー泣いてるよ!」
「姉ちゃん、泣かせた!」
「ちょっ、ええっ、私!?ええー!」

姉に頭を撫でられるのは久しぶりなんてものじゃなかった。それが余計涙を誘発した。
俺も弟も妹も、姉も、誰だって10年も経てば変わる。事実変わったけれど、変わらないことだってあるはずなんだ。姉が昔とは違うことを知ってようやく、自分とは違う世界に生きているんではなくて、俺たちはただ自分に近い他人どうしなんだと思った。こういう繋がりがどれだけ暖かいことか。まさかこの歳でここまで痛感すると思っていなかったけど。

「そういえば京介は昔から泣き虫だったね」
「……別に泣き虫じゃ…」
「しばらく見ないうちにみんな大きくなってたから、サイサイ節なんか忘れてると思ってたんだけど。京介、ちょっとはうまく歌えるようになった?」
「いや、あんまり」
「わはは、かわんないなあ」

姉の笑い方も変わっていなかった。
やっぱり少し、変わった人だった。それは多分、これからもそうなんだろう。少なくとも俺が一番姉に近い他人であり続ける限りは。
その日は、もう一回と言った。それが一回でなかったことは何度もあったはずなのに、変わり者の姉はやっぱり、嫌な顔一つしないで、呟くように歌ってくれたのだった。


長女と長男



烏丸京介の姉
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