大学は夏休み、任務も非番、世間は盆休み。実家の縁側で空を眺めていた。白の油絵の具を厚塗りしたような入道雲が、空色とは違う冴えた青にどっかり座っている。弟が生まれた季節の空だ。
弟の葵は、兄とも俺とも違って母親似だ。線が細く、色白で、透き通るような目はぼんやり遠くを見つめている。
ぺたぺた足の裏を鳴らして縁側を歩いてきた弟を何とは無しに呼び止めると、ふらりと視線を泳がせてから俺の隣に座った。
兄が亡くなって、もう四年半経つ。葵の横顔は兄にそっくりだ。俺と兄は父親似なのに、葵と兄は、横顔は似ている。

「お前は、兄さんに似てるな」

ひとり母親似の末っ子は、自分もその自覚はあるだろうにすぐさま否定することもせず、またふらりと視線を庭に泳がせた。「兄さんとぼくが、なあ」と言ったきり、弟は何も言わない。
こんなことを言ったのは初めてだった。どこかで避けていたような気がする。夏の空にそのまま溶けていきそうな弟にはなにかタブーのひとことがあるように思えて、俺が必要以上に張っていた結界に、自分から少しだけ穴を開けた気分だった。

「兄さんて、久しぶりに言うた」

ぽつりと呟く言葉の訛りは、弟特有だ。母親が訛りのある地方出身ではあるが、今ではそれもすっかり無い。葵の場合、しばらくの期間、しょっちゅうそちらの親戚に預けられていた影響だ。

「父さんも母さんも話したがらんし、ぼくらも話さん」
「…二人とも話したがらないのか?」
「死んだひと、そう話に出るもんやないけ」

対して必要以上のことはしない葵は、いつでも直球だ。時々末恐ろしく感じる。兄は兄でも、死んだ人。その目にも言葉にも妙な勘繰りがないぶん、どうにもおかしなやつだと思う。変にのらりくらりとしていて、そのわりに見ているところはものの真髄だ。
口には出さずも、葵は兄をよく慕っていた。俺のことも慕っている。家族を大切にするやつだ。大切と言うとこいつには似合わないが、間違ってはいない。その通りだ。

「兄さんが死んだときな」
「?」
「ぼくが泣かんかったの覚えてる?」

覚えている。兄さんが死んだのになんで泣かないんだと、怒鳴りつけたことを思い出した。泣くのを我慢する風でもなく、こいつはただいつも通りだった。棺に横たわる兄の亡骸を、冴えた瞳に反射するように映していた。それにどうしようもなく苛立って、こいつにとって兄さんはその程度の存在だったのかと、年の離れた弟の胸ぐらを掴んで殴りかかった。その時ばかりは、水晶に似た目を丸くしていたが、やっぱり何も言わずに。あのときこいつが何を考えていたのか今でもわからない。葵の涙を最後に見たのは、兄さんが死ぬ前、もうずっと前だ。

「死ぬって死んだひとにしかわからんのに、死んだひとはもの言わん。知らんことも、わからんことも、全部こわいことや。こわかった。兄ちゃんは目の前におるんに、兄ちゃんはぼくが知らんとこ行ってしもて、でもぼくの目の前におった。わけわからんかった」

次は俺が何も言えなくなった。葵はいつものぼんやりした目で空を見ていた。普段からほとんど無い表情の起伏はこんなときも無い。浮かんだものをそのまま舌に乗せるような少し不自然に聞こえる話し方で紡がれる言葉はまぎれもないこいつ自身の言葉で、常のこいつとなんら変わりはしない。
そんなふうに見えた兄の葬儀のとき、こんなことを考えていたのか。葵は、怖かったのだと言った。訳がわからなかったのだと言った。兄ちゃん、と言った。葵は昔、兄をそう呼んでいた。
弟がこちらを向いた。
横顔は兄に似ているのに、正面から見た顔は、ちっとも似てなんかいやしない。「蒼也くんは、わかってるから、泣いてたんかなあ」混じり気のない顔だった。

「ぼく蒼也くんみたく頭ようないもん。まだわからんよ。たぶん死ぬまでわからん」
「俺だってわからないぞ」
「ほんでも、ぼくよりはわかっとる」
「………」
「言わんかったけど、兄さん、馬鹿やで」

葵が、くくっと喉を鳴らして、小さく声を出す。俺が驚いて葵を見ると、珍しく、滅多に見られないような顔で笑っていた。知らなかっただろうと言わんばかりに、おかしそうに笑っていた。

「兄さんのこと嫌いなのか?」
「うんにゃ。でも馬鹿なもんは馬鹿。それは好き嫌い関係ない」

立ち上がる葵の背中を見るだけで、俺も立ち上がる気にはなれなかった。「ひと雨来るで、縁側閉めといてな」という言葉に俺が頷くと、葵はまた、ぺたぺた音をさせながら縁側を歩いて行った。その口元は既に緩んでなどいなかった。


蚊帳を吊る俺を布団に寝そべったまま見上げる葵の顔は、やっぱり母親似だと改めて思う。「蒼也くん」「ん?」「ぼくが、兄さんが馬鹿や言うたんはな」

「順番、守らんかったからや」
「順番を、」
「守らんかった」

おやすみ。
葵は、もう、目を閉じていた。


順番を守らなかった兄さんを、兄さんによく似た横顔を持つ末っ子は、馬鹿だと言った。
順番。
なんの順番だろう。兄さんは、なんの順番を守らなかったために、末っ子に馬鹿呼ばわりされたのだろう。
蚊帳の中に一匹の蝿が飛んでいた。
蚊帳から出そうとしてもなかなかそいつは出ていこうとせず、手で払っても、外に出たがる素振りも見せない。弟が言ったことに対する疑問に加え、羽音が気になって眠れず、蝿叩きか何かを持ってこようかと布団から身体を起こしたとき、弟が目を開けてこちらを見ていることに気がついた。

「その蝿、逃げんの」
「ああ」
「その蝿、殺さんといて。外出さんといて」
「……?」
「蒼也くん、追い払っても離れていかん虫は、死んだひとやで」
「、」
「帰ってきたんや」
「…そうか」

それにしたって蝿かあ、と葵は、よく見ていないとわからないくらい薄く微笑んで、また瞼を下ろした。俺も、起こした身体をまた布団に横たえる。追い払っても逃げない虫は死んだ人、兄さんが教えてくれたことだ。
兄さんは、順番を守らなかった。
ああ、そうか、順番。親より先に死ぬのが一番の親不孝だ、順番を違えるなと、父はよく言っていた。葵は、死ぬ順番のことを言っていたのだ。
その夜、夢に兄さんが出てきた。兄さん、おかえり。あなたの二人目の弟は、あなたを馬鹿と言うほどには成長した。弟はこの季節、また一つ歳を重ねる。兄さんの声も、顔も、きっとこの先どんどん薄れていくのだろうけど、弟がいる限り、せめて横顔を忘れることはない。血を分けるというのは、きっとそういうことだ。
弟が、葵がいてくれて良かったと、心の底から思った。誕生日おめでとう。今年の夏は空が高い。



三兄弟



風間蒼也と兄と弟
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