Ken×Hika


さっきの眩暈は重力に耐えきれなかった体の悲鳴のようだった。ケンヤさんの帰りを待つ間に体は慣れてきたようで、ベッドから出て窓の傍に立つ。日はもう落ちて、空と海の狭間に太陽は飲みこまれていった。海の中では決して見れない景色。できることなら、ケンヤさんと一緒に見たかった。
空にきらきらと光る粒が現れて、太陽の代わりに月が顔を出した。その頃にはこの部屋を大体理解して、探索も終えた。お腹の虫がぐうと鳴きだした時、扉がノックされた。
開かれた扉から現れたのは、おれが帰りを待っていたケンヤさん。「ただいま」の声はおれが抱きついたせいで発せられなかった。足を使うのにも大分慣れてきて、少しだけなら走ることもできた。まだたどたどしいものだけど。転びそうになった勢いでケンヤさんに抱きついたおれの背に腕を回して、ケンヤさんは「寂しかったんか」と聞いた。おれが頷くと、それと連動してお腹の虫がまた鳴いた。

「そろそろ飯の時間やな」

悪戯に笑うケンヤさんの顔が恥ずかしさでまともに見れなくて、その胸に顔を埋めた。



メイドを呼んで運ばせたのは、ニンゲンの食事という奴だった。白い板の上に色とりどりの食べ物が乗っていることは一目でわかるが、ニンゲンはこんなに複雑な物を口にするのだろうか。ニンゲンのことがまた一つわかったと感激する中、どうやらケンヤさんはおれがこの豪華な食べ物を見て感激していると把握したらしく、おれを椅子に座らせた。けれど未知で不思議な食べ物を容易に口につけることができない性分のため、いくらケンヤさんが期待してくれても、俺は目の前に置かれた銀色の棒に手をつけようとしなかった。

「苦手なもんやった?」

そう問われてもわからないおれは俯くくらいしかできない。でも何か口につけなければ空腹で腹痛が起こるだろうし、何よりケンヤさんの笑顔が見れない。「無理しなくてええよ」と言われたおれは頭を上げて食べ物を見渡した。そこで目にとまったのが、赤くて丸いものだった。おもむろに手を伸ばして齧りつくと、爽やかな酸味が口内に広がった。おれが手に取ったのは、林檎だった。

「林檎なら、食べれそうなん?」

頷くと、ケンヤさんは「たくさんあるからゆっくり食べや」と笑ってくれた。ああ、おれはやっぱりこの笑顔が好きや。その笑顔が見たいから、ニンゲンになったんや。声が出なくなっても、ケンヤさんの傍にずっと居りたい。ささやかな願いが胸の内に湧き出るように身を埋めた。
林檎をお腹いっぱい食べて食事を終えたおれは、ケンヤさんが見せたいものがあると言って部屋を出て行った。するとすぐにおれはケンヤさんの傍におった女の人から服を着替えさせられた。真白の妙にひらひらした肌触りのいい薄い服。かわええな、なんて思いながら鏡に映る自分を見やった。
服を捲って白い足を出すと、自分の足でないような気がして、でも床と接するとちゃんと感触があって。夢ではないのだ、これは、現実だ。そう思うとまた、胸の内から活気が湧いてくるのを感じた。

「………!」

―――…そうや、ここから小春姉さんとユウジ姉さんに会えないんか?
俺は拙い足取りで窓に寄って、潮風に当たる。懐かしい香りに感傷的になっておもむろにテーブルに残っていた林檎を海に投げ込むと、海面に二つの影が浮かび上がった。

「光ちゃん!心配したんよ」
「魚から聞いたで。自分西の魔女に力借りたらしいな」

急におれの姿が消えたからすごく心配したと小春姉さんは泣きそうな顔して笑った。ユウジ姉さんはものすごい剣幕でおれを怒鳴りつけたあと、悲しそうな顔して俯いた。おれの足を視界に入れた二人は目を見開いて、それから静かにおれを問い詰めた。

「ニンゲンに、なったん?」
「…まさか、ニンゲンに惚れたっちゅうわけあらへんよな!やから西の魔女に…っ!」

ユウジ姉さんは一度、ニンゲンの仕掛けた網にかかったことがあり、怖い思いをさせられた経験を持っている。だからニンゲンのことをよく思っていない。そして西の魔女の噂はやはり知っていた。おれには教えてくれへんかった。きっとおれのことを思ってのことだったのかもしれない。でも、おれはその魔女のおかげで今こうしてケンヤさんの傍に居る。姉さん達が正しいとか魔女が正しくないとか、それこそが曖昧になりつつあるおれにその判断が出来るはずがない。

「私らにも言えんの?光ちゃん」

何かを伝えようと喉から音を振り絞っても声帯が震えることはなく、おれはただ姉さんの目を見ることしかできなかった。

「声、出ないんか」

ユウジ姉さんの悲しそうな顔。おれはゆるゆると首を横に振った。それでもおれは同じニンゲンとしてケンヤさんと会えたから、話せたから、笑顔を見れたから幸せなんや。静かに微笑むと、小春姉さんは震えるユウジ姉さんの肩を抱いておれを見上げた。

「光ちゃん」

母が娘に向けるような眼差しがおれを捕らえる。

「魔女はタダで薬を渡したりはせんよ。光ちゃん、気いつけて」

小春姉さんは、眼鏡の奥の瞳がおれの心を射抜くような鋭い光を残して、ユウジ姉さんを連れて海に帰っていった。
姉さんとの再会も束の間の一瞬。姉さんに心配をかけさせてしまったと肩を落として部屋に戻ろうとすると、ちょうど扉を開けたケンヤさんが視界に入った。さっきよりも上機嫌な様子でおれを手招く。

「お、林檎食べたんか!」

よし、と頭を撫でてくれるケンヤさん。せや、と言っておれを椅子に座らせ、その正面の椅子に腰かけるケンヤさん。おしゃべりをしてくれるのだろうか、胸の鼓動が早まっていく。二人きりの部屋。二人ぼっち。それだけで十分だと思うのは、おれが今幸せを感じているからだろうか。「聞いてくれるか」と切り出された言葉に大きく頷く。

「あんな、俺、つい二週間くらい前の船上パーティーで船から落ちてん」
「そんときに誰かに助けてもろたみたいでな、頭の中に声が響いてきてな」
「顔も姿も覚えてへんのにその声だけ、俺ん中に残っとったんや」
「こんな奇麗な声の持ち主、どんだけ可愛えんやろ、なんて思っとったりしてな」
「そういえば、あの子のことを探して俺が倒れとった浜辺に足を運んで会うたんやったな」

ケンヤさんの口から出てくるのは全部が全部おれのことやった。ああ、今声が出せるならば、あなたが探しとるんはおれなんです、と伝えることができるのに。なんて不条理なんだろう。声を失えばおれの想いはケンヤさんに届かない。聴力を失えばケンヤさんの声を聞きとることができない。視力を失えばケンヤさんの笑顔すら映せない。せめて副作用で失ってしまうのが手足の一本ならば、こんなにももどかしく胸を焦がす拷問など受けずに済んだのに。これが魔女を、魔女を頼った者への罰なのか。これが、小春姉さんの言う魔女の求める“見返り”というものなのだろうか。苦しい。苦しくて、苦しくてどうにかなってしまいそうだ。

「そんなことも終いや」

突然、ケンヤさんが呟いたことば。おれには理解するのに頭が追いつかなかった。

「見つかったんや。俺を助けてくれたあの子」

嬉々として語るケンヤさんはほんまに嬉しそう。でも、うそや。

「隣の国から帰ってきた時にな、城の近くに居ったんや」

目の前に居るのがケンヤさんを助けた“あの子”や。いや、嫌や。胸騒ぎが止まらない。

「あの時と同じ声で、歌うたっとったん聴いてはっきりしたんや」

先とは違う鼓動を刻む心臓。不安と焦りがおれの感情を揺らす。

「ちょうどそこで待っててもらっとるさかい、呼んでくるな」
“待って その子はおれや”

そんな声は届かない。ケンヤさんは立ちあがって扉を開ける。そして大きく手を振って、“あの子”を部屋に連れ込んだ。
――――夢ではない、これは、現実だ。そう思うとまた、胸の内から活気が湧いてくるのを感じた。
それが脆くも現実であるとおれに認識させたのは、突然の彼女の登場だった。そしておれの頭はフリーズした。

「今日から自分と同じでここの居候になった、名前は蔵っちゅーんや。……え?知り合いやて?」
「ああ、この子光言うんよ。一回だけ会ったことあるの」

へら、と笑う彼女は、

「仲良うしてね、光ちゃん」

西の魔女と同じ顔で、俺の声で。にこりと微笑んだ。





Mermaid


( Mermaid )


人魚姫続き。魔女登場の巻。ユウジが網に引っかかった話も書きたい。光ちゃんがどんどん不憫になっていく…ごめんね光ちゃん!

20120330 ナヅキ
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