Ken×Hika


人間に恋をした。それがどんなに辛いものなのか、今のおれはそれに心酔しきって盲目になっていた。だから魔女の甘い囁きに耳を貸してしまった。それでも後悔はしていない。だってあなたと同じ地上を歩めるのだから。

光の柱が差し込む深海に、幻と謳われる人魚――おれ――は住んでいた。貝のベッドに星の砂の絨毯。色とりどりのイソギンチャクが波に揺られて踊っている。神秘的な風景を特等席で見させてくれる。奇麗な姉に囲まれて育ったおれは末娘として愛されていた。魚もヤドカリも皆が皆可愛がってくれた。だからおれは海が大好きだった。
或る日にぎやかな音が聞こえて海面を見上げると、大きな影が見えた。姉たちはそれを“ふね”と言った。ニンゲン達が海を渡るために作ったものだって教えてくれた。おれの興味もその“ふね”に向かった。海面から顔を出すと、ぱちぱちと燃える赤や緑の光がおれの目に映った。それもニンゲンの作ったものなんだろう。おれは“ふね”を見ているうちに、ニンゲンに見つかってはいけないという約束が頭から抜けて魅入ってしまっていた。

「………きれいや…」

けれどそんな時間も長く続くはずもなく、海の切れ端から黒い雲が空を覆って波は荒れ、静かに見ていることが出来なくなった。船上からはニンゲンの騒ぐ声がしていた。おれもあまりの荒れ模様に一度皆の元に戻った方がいいのではないかと思う反面、それでも船上行われていたパーティーが気になって立ち止まってしまっていた。そんな時、おれの後ろの方で盛大な水しぶきが起きた。船上の人間の声が近くなって、暗い海に潜って姿を眩ました。
夜の海の中は文字通り真っ暗だ。でもおれ達人魚には生きていけるくらいにはよく見える。その中で煌びやかな衣装を纏った、この海には似合わないニンゲンが水の中で浮かんでいるのを見つけた。きっと今の衝撃はこのニンゲンが落ちてきたからだろう。周りの魚達も驚いてニンゲンから離れていった。もがくニンゲンの近くには、おれしかいなかった。

(ニンゲンに見つかったらだめなんやのに、)

放っておけない。俺はニンゲンに寄ってその手に触れた。ニンゲンの目が開かれて、おれの目と視線が交わる。けれどそれきり、ニンゲンは酸素の泡を吐いて動かなくなった。おれはニンゲンの腕を引いて、お気に入りの海岸へと向かった。




砂の上にニンゲンを横たわらせ、その顔色をうかがう。苦しそうな表情、それに、動く様子はなかった。

(見つからなければええんや。助けるくらいなら、ええんや)

自分に言い聞かせて、動かないニンゲンの唇に自分の唇を重ねた。もしこのニンゲンが目を覚まさなかったらどうしよう。こう思うなんて、きっとおれはこのニンゲンのことを―――…ああ、でもそれは叶わない夢に過ぎない。人間と関わるなんてことは人魚のおきてに反することや。
おれは徐々に生気を取り戻しつつあるニンゲンをそのままに、約束を握り締めてその場から立ち去った。海は、いつもより冷たい気がした。




「光ちゃんどしたん?調子でも悪いんとちゃう?」

あのニンゲンの件から少し経っても、俺の複雑な心は言えることはなかった。小春姉さんに心配かけさせてしまった。隣でユウジ姉さんも「自分らしくない」と言う。
あの時助けたニンゲンのことが忘れられず、魚達から情報ももらった。あのニンゲンは“ケンヤ”という名前らしい。しかもこの陸地を占める国王の息子、つまりは王子様だということがわかった。

「…何でもないっすわ」

姉さん達にはこう答えるしかない。おれがニンゲンに想いを寄せている、なんてことが知れたら追放どころでは済まない騒ぎになるからだ。はぁ、と溜息を吐いて目の前を優雅に泳ぐ魚達を見詰める。

「…ケンヤ、さん」

喉から絞って出す“ケンヤ”という音はおれの胸を締め付けるくらい、特別な響きを含んでいた。きゅん、と胸が疼く。

「もう一度、…会いたいっすわ」

もう一度、もう一度だけでいい。ケンヤさんを見たい。それだけでいい。掟に縛られる身であるおれにはそれが限界だととっくに知っている。だから、今、願うのはそれだけで十分だ。
何となく波に揺れるイソギンチャクに視線をよこすと、その隙間から顔をのぞかせたクマノミと目が合った。魚にも心配をかけてしまっていたか、と反省してそのウロコを撫でると、クマノミは思わぬことを言った。

「あのニンゲンのことが気になるの?」

このクマノミは一件のことを知っている、いや、一部始終を知っていたのだ。俺がそれに目を丸くすると、「誰にも言ってないよ」と体を擦り寄せてきた。

「どうしても、会いたいなら。西の魔女に聞くといいよ。西の魔女は何でも知っているから」

クマノミはそう呟いて、イソギンチャクの中に隠れてしまった。人魚とニンゲンの逢引をしたと知られたらクマノミの立場も危うくなるからだ。

(……西の魔女…)

その通り名だけは聞いている。海の全てを知りつくす、いわば“聖書”と呼ばれる魔女のことだ。西にある、サンゴの茨に包まれた家に住む、とても奇麗な。けれど魔女はどんなことにも手を貸すから、あまりいい評判は聞いていない。だから西の魔女と聞いて考え込んだ。

(でも、魔女に頼めば、ケンヤさんに会える)

会えるなら、手段は選ばない。姉達の目を盗んでおれは西へと泳いだ。西の魔女が待つサンゴの茨に向かって。




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