まだ相思以上相愛未満 | ナノ
 


一先ず落ち着くべきだ。そう、心を鎮めるべき。
僕に目下与えられた課題、平常心を取り戻す事。小さな子供に泣かれようと、女性から不審者を見るような眼差しを浴びせられようと、同性からも物珍しげな視線を向けられようと構うものか。今の僕はとにかく普段通りの自分を取り戻さなければならない。蘇れ我が白髪頭。
ああ、人生において白髪に成る事を切に望む日が来ようとは。そもそも僕はまだ二十六なのに。


「馬鹿か君は。バレンタインデーにクラスのアイドル的存在から手作りチョコを貰った中二男子に勝るとも劣らぬ浮かれようだな」


握り潰したゴミを屑篭へと放るかの如きぞんざいな口調で放たれた一言が鼓膜をちくりと刺した。切り揃えられた前髪の下に在る黒々とした睫毛、の更に下に位置する虹彩は存分に呆れを湛えていて、幾ら三途川先生の破天荒振りと自由奔放の度合いを把握している僕と言えど流石に気まずいものを覚える。

深呼吸を二回。三回。五回。最終的に咳き込んだだけで、やはり冷静さは戻ってこない。
ここ最近は校内でも自宅近辺でも目立った病魔の気配は感じていない。つまり、僕の体内の此れは然して食事をしていない。そうなると必然的に肌のひび割れは其の面積を増し、僕の胸中で感情が揺らぐ頻度も殊更減るのが過去においての末路であったというのに、目下僕の肌は割れるどころか皹そのものの存在が消えている。
視界に掛かる前髪は黒檀色に染まり、鏡を見遣ればやはり夜の色をした双眸が此方を見返す。まるで猫のような金色の瞳を気に入っていた訳では無いが、こういう形で失いたいと考えた事は無かった。


「大体なぁ逸人くん、君がウルトラハイパー超絶エクストラメガトン級に鈍感なのがそもそもの原因だぞ」
「メガトンって重さじゃないんですか」
「やかましい。全く…才崎くんも君の何処に惚れたんだか甚だ疑問だな」


惚れた。三途川先生の口からぽろりと飛び出た其の単語に、必死に手繰り寄せていた平常心は再び彼方へと逃げ出した。
これまでにも憤りや怒りを抑え切れず、また其れを冷血が喰い尽くせずに髪と肌が嘗てのものに戻った事は幾度かあった。けれども完全な復活に至った事などそれこそ冷血が身体から抜け出た時ぐらいで、そんな事態にならなければ毎回どうにか共存を図る事が出来ていた。
それなのに、病魔では無く人間の、職場の同僚である女性から好意を告げられただけで此れとは。確かに浮かれていると思われてしまっても仕方が無い。

事が起きたのは昨晩十九時、もう生徒は一人も居らず数名の教師や職員が残業を片付けている校舎内の廊下の一角。顔を真っ赤にしながら僕に向かって一息で恋情の丈を口にした才崎先生は直ぐに背を向けて走り去ってしまったけれど、あの場で返答を求められなかった事はある意味幸運だったのだろう。
何せ彼女が前方の突き当たりを右に曲がって其の姿を消す数秒前から、僕の髪は変色を始めていたのだ。


「返事は何時でも良いとも、逆に伝えられただけで満足だとも言われなかったんだろう?」
「え、…ああ、はい」
「だったらさっさと首を縦に振って甘い台詞の一つでも吐いてこい。それだけ才崎くんに余裕が無かったという事は、彼女は軽い気持ちでは無いと言う事だ」
「一応それ位は分かってますよ…だから今どうにか普段通りに戻ろうとしてるんじゃないですか…」
「…ふむ、手放しで喜ぶ事すら出来んのか。そんなに浮かれた気分を沈めて特殊メイク顔に戻りたいのなら、私が思い付く限りの罵倒を並べてやろうか?」
「結構です」
「この私の思い遣りをはね除けるとは、酷い教え子だ」
「思いっきり愉しそうに笑ってる口で言う台詞じゃないでしょう、先生」


見上げた先に在る壁掛け時計の針は午後十三時二十一分を指している。出勤してから約六時間半、一向に収まる気配の無いこの緊張と歓喜をどうすれば良いのだろう。本当は、この感情こそを、才崎先生に伝えたいと想う。

そして最も焦れったいのは、取り繕う事に終始しようとする僕自身だ。当たって砕けろ精神に欠けている。
大切にしていきたい女性だというのならば、本当は才崎先生にこそ、この姿の僕を理解して受け入れて貰わなければならないのだ。幽鬼顔負けな容姿の僕に臆する事も無く接してくれた、そして好いてくれた、人の中身をしっかりと見て相手と個々で向き合ってくれる彼女の姿勢を、見習うべきなのだ。
解っている。無理に自分を落ち着かせて、無理に姿を戻さなくても、才崎先生なら理解しようと歩み寄ってくれる事は。其処に惹かれたのだから。


「……確かに僕は馬鹿、ですよ」
「やれやれ、気付くのに時間を掛け過ぎだ。…頑張りたまえ、逸人くん」


笑みを含んだ声を背中に受けつつ、校長室の扉を開く。視界の端で揺れる髪はやはり黒い。
けれども、其れで良いんだと。他でもない彼女が言ってくれる気がして思わず口元を緩ませながら、職員室がある方向へ足を向けた。





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(title:fugue)

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