ゆとりなく溺愛 | ナノ
 


「あなたが好きです」


そう告げたわたしの声は、随分と珍しい事に全くと言って良い程震えを帯びていなかった。声帯の震えを厭わしく思う場面はこれまで多々在ったけれども、今は、今ぐらいはどちらかと言えば寧ろ震えていて欲しかった。
小刻みに、不安定に感情の出所をちらつかせて、胸の奥で解放を待ち侘び其れを嘆願している哀切の塊の現存をわたし以外の人にも判るようにして欲しかった。それなのにわたしの喉と唇が不随意に共謀でもしたのか、今回に限って言葉はつらつらと並べたてられてしまったのだ。

本来ならば淀まずに台詞を言い終えられた事は、わたし自身が自分に向けて賛辞を浴びせかけてやっても良いのではと思える位のなかなかに立派な事だけど、しかも其の相手が意中の人であるだけに最早奇跡に近い所業を成し遂げる事が出来たと言ってしまっても恐らく周囲には看過されるだろう事なのだけど。
嗚呼わたし、あなたを好きになる喜びを得るだけでは飽き足らず、そうしてどれ程強欲になれば気が済むのだろう。

「返事は今度で良い、です」、そんな言葉も添えて。愛の告白なるものにはさぞや慣れているだろう藤くんがわたしの言葉達を一蹴せずに最後まで聞いてくれた事実はとても喜ばしくて、同時に顔を見る勇気をわたしの中から吸い取る。

いっそお辞儀の一つでもしようかと、愛用のノートを持ち直してほんの少しだけ息を吐く。
緊張を原因として派生した僅かな汗は皮膚に纏わりついてどうにも不快感を誘ったものの、例えばこの右手を握り直したりベストの裾を掴んだり髪を弄ったりしたら、要は目下ノートを握りしめている五本の指から僅かばかりでも力を抜いたらその儘膝から崩れて廊下に座り込んでしまいそうで、そんな些細でありながら意識の端に居座るような不都合は我慢するしかない。

廊下を見て、自分の爪先を見て、今はまだわたしと向かい合ってくれている正面の爪先もしっかりと視界に収めてから帰ろう。背筋を伸ばして歩むのよ美玖、大根役者だって其れ位の所作ならやってのけられる。
胸の内側で喚く心臓の脈動が鼓膜にまで響いて他の音が拾えない事は現状下では幾らか好都合だ。


「あの、…それじゃあ、」
「待ってた」
「 、えっ…、…?」


抑揚に乏しい低音は束の間だけ宙を漂ってから直ぐに潰えた。傾けようとした頭の角度を変えるに変えられない。
呆けたような声を零したわたしの両目はと言えば、相も変わらず藤くんが着ている薄紫色のベストの、腹部の辺りに寄った皺の上から二本目を見つめたまま。

自分の両耳が捉えた言葉の意味を出来る限りの範囲で探ろうと試みるのだけれど、わたしの台詞に対する返答では無い其れを一体どのような形で受け取れば良いのかが全く判らなくて、棒立ちになった脚も一体どう動かしたものか決められない。


「小狡いって自分でも思うけど、待ってた。お前が歩み寄って来るのを。お前の俺を見る目が、他の女子とは確実に違うものになるのを。お前が俺に向き合おうとするのを。向き合う覚悟が、固まるのを、…待ってたんだよ」


台詞の最後に吐息を含ませて其処まで言い終えた藤くんの足が一歩、上履きの底と床が擦れる小さな音を立てて此方に進む。
一歩二歩、三歩、先刻まで見つめていた其の爪先が進む毎にわたしの心臓の煩さも増して、脈打つ其れが喉の辺りまで上がってきているような錯覚さえ覚える。

遂に藤くんのベストの一端がわたしの左手の甲に触れた。シャツの襟元が文字通り目の前に在る。けれども端正としか言いようの無い綺麗な造りをした顔はわたしの目線よりも上に位置していて、生まれてから恐らく初めて自分が低身長の部類で良かったと混乱極まる脳内の隅で思った。


「あ、あの、ふ…っ藤くん、近、距離が…そのっ、近くて…」
「花巻」
「はっ、はい…!?」
「好きだ」


わたしの声帯はすっかり普段と変わらぬ動き方をするようになってしまった。相槌一つも吃る始末に頬を侵す熱の温度が更に上がる。

頭の中も既に藤くんの言葉の意味を考える事が難しい位の状態に成っていて、両の瞳と肌とで感じる藤くんの気配と存在と互いの距離感を把握するだけで精一杯だ。
それなのに、藤くんは爆弾を放り投げてきた。それも大分衝撃が強いものを、二つ同時に。


「……っ、…!」
「耳どころか首まで真っ赤だな」


笑みが混入された吐息が髪を擽る。其の薄い唇がわたしの前髪に触れ、且つ、わたしに向けて紡がれる事などないだろうと殆ど決めつけていた三文字を今しがた紡いだのだと思うと次の瞬間には抑えがたい歓喜が溢れ出した。
わたしは今、世界と宇宙を引っくるめたこの星の中で、きっと一番幸せな中学二年生の秋の形を経験している。




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(title:藍日)
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