エナメルシロップ | ナノ
 


「此処のエスプレッソはなかなか美味しいだろう?店主が豆の挽き方に拘っているらしい」
「ええ、良い香りですわ〜…。先生と偶然お会い出来た上にお茶にも誘って頂けて、とても良い気分転換になってます」
「それは何よりだ」


厚い硝子の向こうへ、(ぽつり、)放られた声は気付けば二酸化炭素に変身していた。華奢な肩から生えた華奢な腕の先に在る華奢な指が、カップの、これまた華奢な取っ手を苦も無く絡め取っている光景は、出来る事ならば写真に収めてしまいたい位に愛らしい。窓硝子を挟んで喫茶店内へと忍び込む自然光を跳ね返す黒の爪もまた、華奢だ。
自宅に帰れば自分は大柄で色黒な粗野男に出迎えられるのだと思えば思う程、傍らの恩師が可愛らしく見える。

わたしの指も華奢で在れたら良かったのに。日々鋏を握る所為で関節に小さな痼の出来たこの指は、誰かの髪やその他のモノを切り落とす事にばかり長けてしまって。
珈琲豆の挽き方なんて、知らないわ。
見下ろした珈琲は黒い。頭上にぶら下がる外観重視の小洒落た照明器具の光を受けて、其の表面が妙に輝いている。けれども結局黒は黒で、どれだけ両眼で見つめてもカップの底は見えそうにない。

(真っ白なミルクを注いだところで、やっぱり底は見えないけれど、)


「元気でやっているぞ」
「…どなたの話ですか?」
「君が今、頭に思い浮かべた男の話さ。最近は彼を慕ってくれる生徒も増えてね、…いやあ、久方振りに穏やかな笑みを見た気がするよ。あの顔で笑っても爽やかさに欠けるのが残念だがな」


三途川先生の顔を直視する度胸は情けない事に今現在のわたしには持てなくて、そろりと顎の角度を正した。目の前の硝子に映るわたしの片眸は普段と変わらずに瞬きをしているようにしか見えない。
だけど先生がそう言葉にする程なのだから、白い陶器の中で湯気を生む黒い液体を眺めるわたしの目はきっと、何時も通りで居る事は出来ていなかったのだろう。

幾つになっても先生は先生の儘で、其れを実感する度にわたしは、わたし達は未だ透明な檻の中を徘徊しているのだと知る。
鍵ならきちんと有るのに、鍵穴が透明だから開けられない。鍵穴の正確な場所と位置は金色の瞳を持つ男にしか解らない。其の男は鍵を舌の裏側に仕舞い込んで、吐き出そうとしない。だから誰も出られない。
皆が皆同じ所ばかりを歩いている。迷路に閉じ込められた方が、まだ少し位はマシかもしれなかった。けれど檻に入ったのはわたしの意思だ。


「嫌だ、先生ったら…わたしはただ、今度此処に来た時は何を飲もうか考えていただけですよ」
「おや、この店を贔屓にしてくれるのかい。嬉しいね」
「珈琲も紅茶も好きですから」


丸く可愛らしい輪郭を持った小瓶を手に取り、縁の一部、僅かに出っ張った箇所を手元のカップに向けて傾ける。
其処から音も無くただ滑らかに落下したミルクの白は珈琲の黒い水面に吸い込まれ、直ぐさま陶磁器内の限られた面積の中で其の存在を広げ、わたしの右手が小瓶を元在った位置へと戻し終える頃には液体が有する色彩をまろやかなブラウン一色へと変えていた。





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