わたしはあなたになれないけれど | ナノ
 


ほら、


「またイエローゾーンだったでしょう…?何度同じ事を言わせるのかしら、あなた」


わたしが溜め息混じりにそう言うと、逸人は笑った。したり顔でも無く、誇らしげにするでも無く、此方を嘲笑うでも無く、ましてや自嘲でも無い。そっと密やかに吐息の欠片を逃がすような苦笑がひとつ。睫毛だけが唯一震えている、ように見えた。
わたしを宥めようとしているのだとしたら其の行為と思考を笑い飛ばして、手段を模索する姿勢の甘ったるさを馬鹿にしてやる事も可能であったかもしれないけれど、ただの感情の切れ端をこれ見よがしに摘まれてしまっては愛想笑いを浮かべる一挙動さえ億劫になる。

破壊衝動を引き起こす病魔に罹った青年に相対した折、相手を不本意に傷付ける事を逸人は恐れた。その結果放たれた蹴りを思いきり自分の腹で受け止めて呼吸困難、居合わせたわたしが道端に落ちていたブロック塀の欠片を喚く男に投げ付け隙を作った事でどうにか病魔の捕食には成功した。けれども勝利とは言い難い。
格好付けて二本足で立ってる其の背中が危なっかしいのよ、高いヒールに踵を預けるわたしの方がよっぽどちゃんと立ってるわ。脂汗浮かせちゃって本当、に、


「甘ちゃんなのね〜…。わたしや経一や三途川先生の制止も振り切ってそんな風体になったって言うのに、根っこはちっとも変わらないじゃない…ああいう類いの病魔に罹った奴相手には毎回躊躇して、痛い思いして負わなくて良い怪我負って、それからやっと食べるつもり?そもそも周囲に迷惑掛けるようなのに罹る人間は、」
「忍耐力と我慢強さが無い。そう言いたいんだろ、…お前の持論だからな。だけど皆、自分や周りを傷付けたくて病魔を呼び込む訳じゃない」
「そんなの、わたしだって分かってるわ…。でもね逸人、あなたのそのたった二つの手で諸々を救いたいんだなんて言うなら、割り切る事だって重要よ。人の感情の揺れ方なんて十人十色だけど、いちいちそんなの慮って様子見てたらあなた本当に、…死ぬ、わ」


分かってる癖に。
分かってる癖に。
様々なものとの乖離が実際は自分の吐息が掛かる位の至近距離に在る事、分かってる癖に。
例えば今此処に居眠り運転の大型トラックが突っ込んできたら、わたしもあなたも現世とはお別れよ。例えば人の意識を夢に誘う病魔に負けたら、あなたもう現実に戻って来られないのよ。例えばあなたの腹の中のソレがあなたの自我を喰ったら、あなたもう笑えないのよ、泣けないのよ。ねえ一秒後には世界が暗転するかもしれないって、分かってよ。

あなた何時までイエローゾーンに突っ立ってる気なの。デッドゾーンと平和の境界線なんて、映画の中の超人ヒーローか、漫画の中の正義の味方だけが踏んでいれば良いのに。あなたがそんな危うい場所に立ち続けなきゃならない程の理不尽な理由なんて無いじゃない、無い筈じゃない、だってわたし達まだ十八歳になったばかりよ、なのにどうしてあなたはずっと


「泣かないのね、あなた。経一が逸人は無愛想な野良猫みたいな面構えになった、なんて言って不貞腐れてたけど…あいつにしてはなかなか良い例えかしら。毛並みに艶は無いのに金色の目だけぎらぎらさせちゃって、本当に獲物を捜し歩く猫みたいだもの…」


膝を折って、逸人の丁度真正面にしゃがみ込む。汗が伝った跡の残る頬、其処に這う皹割れの一筋を人差し指でなぞる。ひやりとしている。なぞれど撫でれど肌が崩れる気配の無い事だけは、胸腔から難無く息を吐き出せる程度の安堵感をわたしに齎してくれた。

あなたにはあなたの、わたしにはわたしの理由とエゴが在る。其れぐらい重々承知済み、首輪を着けようとは思ってないから安心して。
何時かイエローゾーンを抜け出して、猫の皮を脱いで人間に戻った時、中学生だった頃と同じで傷みも何も無くなった頬を一回思いきりひっぱたかせてくれれば充分。あなたが誰より一番もがいて足掻いて頑張ってる事が分からない程、馬鹿な女じゃないわ。

とは言えあなたが今後もこうして簡単に自分を投げ出して蔑ろにした場合、其の度に平手打ちをお見舞いする心算は既に固めてあるけれど。


「ほら逸人、立って。あなたみたいなのが往来で座り込んでたら目立って仕方ないもの」
「待っ、襟首を掴むなって、苦し…」
「じゃあさっさと立ちなさい。全くだらしないんだから…」
「……、鈍」
「何よ。ブロック投げた事なら反省も後悔もしないわよ〜…ああしなきゃ今頃こっちが、」
「すまない」


嗚呼、ほらまた。
あなたは率先して自分から平和を遠ざけるのね。素直過ぎるし、頑なにも程があるし、周りに目を向け過ぎている。感情と一緒に自己保身欲まで喰われたのかしら。


「謝られる覚えなんて、無いわ」


わたしはあなたになれないけれど

あなたの頬をひっぱたく準備なら何時でも出来ているのよ。
だから未来の何処かで必ず、野良猫の真似をやめてちょうだい。其れまでは待っていてあげる。





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主催企画「merci」に提出


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