ライナスの毛布 | ナノ
 


ふわりとした感触で微睡みが僅かに掻き乱された。擽ったさを与えてくる柔らかな何かしらから滲む珈琲の香りが仄かに外気へ溶け込む。其れは職員室で教職員らが日々口にしているものよりも幾分甘やかな気がして、心地良い眠気に因って融かされた思考を更にとろけさせる。もう少し、もう少しだけ。昨日は眠りが浅かったから。

ぱらり。

紙の擦れる音。真新しいノートを一枚捲るような、配布予定のプリントの枚数を数えるような。
砂糖を目一杯入れたカフェラテのようにゆるゆるとたゆたう意識は其処で現実を思い出す。待って、こめかみに感じる感触は私自身の腕で、けれども腕に伝わる机らしき物の固さと周囲を取り囲むように満ちる書籍やファイルや空のカップの気配は私の家のものでは無いの、なら。この珈琲の香りは、いいえこの背中を覆う何か、は。


「…ああ、起きましたか。気分はどうです?此処は少し暖房が効き過ぎてるから具合でも悪くなったのかと…」


意識の覚醒に伴って本来の知覚能力を取り戻した五感が次々と周りの情報を拾い上げ始める。穏やかさを通り越して最早淀んでいるようにすら思える室内のねっとりとした暖かさや、それなりの時間に渡り同じ姿勢で居続けた事で肘と膝の関節に宿った軋むような鈍痛、身体をいきなり起こした事で感じる頭の重み。それから女性の声帯では到底造り得ない低音域の声色。肩から背中に掛けて纏わり付く何かと、少し甘い珈琲の香り。
其の何が肩口から僅かにずり落ちて、自分に向けられたであろう言葉へ返事を返す前に左手が動いてしまった。掴んだ感触は思いの外薄く、滑らかで軽い。そして何より、白い。


「は、派出須先生、何で此処に……あ、いえ、体調には問題ありませんが」


言いたい事と言うべき事が無造作に混ざって口から飛び出す。気遣って貰った事に対して礼を述べるのは大人も子供も関係無い一般的なマナーだと言うのに、先ず声に出すべきである筈のありがとうの一言は脳内で廻るばかり。
肝心の唇は素っ気無ささえ滲ませた台詞をいとも簡単に吐き出してしまって、礼を言わなければならないと言う焦燥が急速に膨れた。腕に抱えた白衣を離す事も出来ない。
嗚呼どうして私は白衣なんてものを持っているのかしら、理科の教員になった覚えは無いのだけれど。

脈絡の無い言葉を鼓膜に受け止めた派出須先生の眼が一度ぱちりと瞬く。
絡んだ視線が此方の転た寝を怠慢だと述べているような気がして、一先ず礼よりも謝罪を優先すべきか質問の応えを待つべきか、やはり今一度きちんと礼を伝えるべきかの三つの選択肢が思考の殆どを占めた。白衣の手触りが余計に頭の中から落ち着きを奪ってゆく。


「明後日の持久走に関するプリントが出来上がったので持って来たんです。それと、待っていました」
「、はい?」
「待ってたんです、才崎先生が起きるのを。気分が悪いならいっそ強引にでも起こして外の空気を吸わせたかもしれませんが、呼吸は落ち着いていたし見た限り不調も見受けられなかったので…」


起きるまで待とうと思って。そう言った派出須先生の出で立ちを改めて見遣れば、黒いシャツに象牙色のような色合いのコートを羽織っている。膝の上には鞄を乗せて、身支度は完全に帰宅時の其れ。
まさか、そんな、まさかまさかまさか、
嫌な想像が沸き上がって、口にするべきは礼か謝罪かの二者択一問題があっさりと塗り潰される。仕事の最中に惰眠を貪ってしまった事が既に恥なのに、待って頂戴まさか、


「……ま、待たせましたか…?何か用事が有ったんじゃ…」
「いえ?僕が来たのは今さっきですし、待つと言う程の時間は経っていませんよ。それに用事はプリントを届けるだけでしたから」


胸を撫で下ろしたい気持ちは十二分に有る。けれども安堵の息を吐こうにも吐けない、だって今さっきと言う言い回しを使えば五分前だろうと三十分前だろうと「今さっき」に当て嵌まってしまうじゃない。
暖房器具が吐き出す生温い空気が肺の中まで入り込む。改めて室内を見回せば、私と派出須先生以外に人の姿は無かった。窓の向こう側に在る校庭も空も等しく夜に染まっていて夕暮れ時の象徴である鴉は一羽も見当たらない。


「あの…じゃあどうして貴方は未だ待っていたんですか?プリントを届けに来たのが用事だったのなら置いていってくれて大丈夫だったのに」
「ええ、まあそうですが…流石に夜分に女性を一人置いて帰る訳にはいきませんから。僕も帰りますし、良ければ送らせて下さい」


軽々しくもやんわりとした動作で伸ばされた男性の大きな手が、白衣をするりと持ってゆく。先程から淡く漂っていた嗜好品の芳香も同時に遠ざかって、あの些か甘さを含んだ香りは保健室で煎れられて彼が飲む其れなのだと知れた。

適温と言うには暖まり過ぎた空気が頭に纏わり付いて鬱陶しい。
だからそう、頬が何故だか必要以上に熱を孕んでいるのは職員室内に充満するこの外気が原因であって、派出須先生が下校していない理由だとか派出須先生の台詞だとか派出須先生の白衣だとか、とにかく派出須先生が原因じゃあ無いのよ。違う違う、違う。





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(title:にやり)



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