血の気が引く、と云う表現が在る事は知っていたけれども、まさか本当に頭の真ん中が冷えるだ何て奇っ怪な現象が起こるとはこれっぽっちも、シャープペンシルの芯の折れた欠片程も想像していなかった。 なのに頭の天辺からこめかみまでがひんやりと冷えてゆく。鼓動が不自然に早まって、今度は次第に脳の中心部がじりじりと熱を持ち始める。 「な、…無い…!」 何処にも無い。見当たらない。鞄の内ポケットから教科書同士の間まで隅々を物色したけれどやはり無い。 本日の予定から昨日の記録、加えて明日の予定、更には走り書きだとか言うかもしれない台詞の羅列などが犇めき合うメモ帳を紛失したらしい現状に、頭が熱いやら首筋が寒いやらで思考に纏まりなんて一片も無くなる。 登校してから今現在に至る迄の過程を急いで思い返す。 一時限目は国語で、其の次は数学、更に次は理科で、今は昼休みを過ごすべく弁当を広げようとしていたところだ。ならば理科室に置いてきてしまったのだろうか。 嗚呼どうして教室への帰路を辿る時に何時もより腕の中が軽い事に気付かなかったのだろう、皮膚感覚の鋭敏な人をこれ程までに羨んだのは初めてなように思う。 実験中は邪魔になるからと長机の下のスペースに荷物を置いたのがいけなかった。だけども机上にノートや筆箱諸々を置いた儘ではビーカーやプリントを余裕を持って並べられないし、肘をぶつけて水道にメモ帳を落としてしまう可能性だって否めない。 何故理科室の机は中央にも壁際にも水道が設置されているのだろう、数が多過ぎると思うのは恐らく私だけでは無い筈だ。 「とっ、とにかく、理科室…!」 「おい、」 もし誰かがメモ帳を見付けて、尚且つ手に取って中に目を通したらと仮定を巡らせるだけで混乱も焦燥も一気に胸中を満たす。 先ずは理科室に行って施錠されているか否かを確かめるべきだと立ち上がる。昼食はこの際後回し、ノートの確保が最優先事項で最重要課題。そもそも空腹を感じられる余裕自体が頭からも腹からもすっかり失せていた。 ぺしん。不意にそんな気の抜けた小さい音と軽い感触が左肩に触れる。 普段ならば少なからず心臓を跳ねさせただろう其の出来事も今や焦りと不安で構築されつつある脳内には然したる驚きを与える事は無く、思いの外すんなりと首は回った。振り向いた先に綺麗な瞳が煌めく。 「おい、花巻。お前…」 「ふわあ、っ!?ふ、藤く…!何、何でしょうかすみません…!」 「いや、謝らなくて良いけど」 さらさらとした前髪の合間から覗く透明度の高い眼は確りと此方に視線を合わせている。まさかの対峙者の姿に情けない位肩が跳ねた。 少し気怠げな様相が大人びていて格好良い、と感じる私の感性はきっと彼に熱視線を送る数多の女の子達と変わらない。 続いて長い指が、正しくは指が捉える何かが差し出された。思わず目線を下に降ろす。見慣れた色彩が視界を彩って、予想を飛び越えた景色に唇からは何の音も零れずただ無味無臭の酸素が口の中に入り込んできた。 どうやら人は驚き過ぎると発声能力を一時的に忘れるらしい。少なくとも、今の私の声帯は本来の役割と務めを忘れている。 「コレ、お前のノートだろ?一階の廊下に落ちてた。気を付けねぇと先生とか他の学年の奴に拾われるぞ」 「あ、…っ…ありがとう…!」 安堵と嬉しさと緊張とで忙しなく動く心臓の音が耳の奥で木霊しているのを知覚しながら、少し震える両手で捜し求めていた其れを受け取る。 次の瞬間には眼前の端正な顔が淡い笑みを浮かべたものだから、恋心に侵された脳は生きていて良かったと言う達観を十四歳にして弾き出した。もうこのノートは一生の宝物にするしかない。 神さま仏さまイエスさまマリアさま、今まで都合の悪い時にだけ物事頼んだり願ったりしてごめんなさい、これからはもっとあなた達の事を信じます! ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ (title:にやり) |