青春は思ったよりも庶民的な味です | ナノ
 


「具合でも悪いのかい…?」


其の台詞に、厳密に言うならば地の底辺をゆるりと撫でるような声色に対して戦慄いた心臓が垂直跳びをした。実際に筋肉の塊が勝手に跳べる筈は無いけれど、私の脆弱性に富んだ心臓は何時でも何処でも新品のバスケットボール並みに盛大に跳ねる事など造作も無い。

驚きのあまり言葉と酸素を一緒くたに飲み込んだ唇がきちんと日本語を発する前にいそいそと眼前の扉が開かれ、地獄への水先案内人よろしく室内を指して口角を吊り上げる派出須先生としっかりきっちり視線が交わってしまった。
保健室の扉の前で直立不動の姿勢を取っていた事は事実並びに現状、因って今更回れ右なんて出来ない。派出須先生が猫のような金色の瞳を嬉しそうに細めているから尚更だ。


「大、丈夫、です。でも、あの…」
「うん?」
「えーと…」


目線があちらこちらに泳いでしまう。少し背を屈めて目線を近くしてくれる派出須先生の語調は本当に穏やかで、大人の男性だと言う事もあってか少しばかり緊張が和らいだ。

派出須先生は優しい。如何しても不気味だとか不穏だとか、世辞にも良いとは言い難い第一印象を与えてしまう風貌をしているけども、其れは頬や手の甲に刻まれた皸と髪や虹彩の稀有な色彩といった外観が素因だ。実際に話して人柄に触れれば警戒心など必要無い人なのだと解る。
そしてそんな内面に触れ、真哉ちゃんはこの派出須逸人さんと言う養護教諭を一人の男性として意識しているらしい。

以前私が助けて貰ったように真哉ちゃんも先生の能力で長年の悩みを解決して貰って以来、自分の有りの儘を認めてくれる派出須先生に憧れているのだそうだ。
藤君や明日葉君を通じて知り合ってからは時折話す機会も増えたけれど、つい最近まで真哉ちゃんは強くて凛とした女の子だと言うイメージがなかなか抜けなかった。そんなスポーツ万能で芯の有る彼女が先日派出須先生に対する感情を私に漏らしてくれた時は、ああ可愛い子だなと素直に思えた。
そんな事を考えながら歩いていたら保健室の前で知らず足を止めてしまっていた訳だけれども。


「…っお、お邪魔しても…良いです、か」
「どうぞどうぞ。花巻さんが来てくれるなんてちょっと珍しいよね…嬉しいなぁ」


子供のように感情を素直に表した面差しは、柔和だと言えると思う。やっぱり良い先生だな、なんて自然と思って、真哉ちゃんの想いが恋慕にせよ憧憬にせよ伝わって欲しいな、とも思った。
何か一つ。派出須先生の好きなお菓子でも、好きなお茶でも、真哉ちゃんへの土産になるような情報を一つ手に入れて贈りたい。そんな思いを抱いて口を開けば普段よりもどもらずに喋る事が出来た。


「……、あれ」


カーテンを通して陽光が差し込む室内は明るい。少し橙色が織り込まれた夕暮れ時の柔らかな光と其れを吸い込む白いシーツが被せられたベッドが保健室特有の空気を醸し出していて、通い慣れた教室とは異なる雰囲気が身体を包む。

けれども窓際に寄せられた真っ白な寝台、其の枕近くに置かれた書籍の色鮮やかな背表紙達が室内で独特の個を主張していた。どう見ても漫画本である其れらの傍らにはお菓子の箱或いは袋まで置かれている。
極彩色を放つ一角を思わず見つめていると、私の視線が刺さる先が何処か分かったのかお茶の用意を進める派出須先生の声音が微量の笑みを帯びた。


「其処ね、藤君のベッドなんだ。学校の備品なのに誰の物って事も無いんだけど、こんなに頻繁に利用してくれるのは藤君ぐらいだからね…。いつの間にか彼専用のスペースみたいになっちゃって」


「藤君のベッドなんだ。」其の台詞が頭の中でくるくると廻る。藤君が教室に居ない時間帯の詳細な内容を思いがけず垣間見た事で、気恥ずかしさに似た感覚がじんわりと沸き出してきた。

保健室の利用者が少ないだけに、もしかしたら日頃藤君によく話し掛けている可愛らしい女の子達は彼が保健室でどう過ごしているのか知らないのでは無いかと言う仮定が膨らむ。
そして、少なくとも藤君が窓際のベッドで漫画を読んだりポテトチップスを食べたりする事を私は知っているのだと言う密やかで確かな優越感と充足感もが胸中で混ざる。
真哉ちゃんの手助けが出来たら、なんて少々節介な思惑の元に足を踏み入れたというのに私が収穫を得てしまってどうするのだろう。


「はい、どうぞ。ほうじ茶だけど大丈夫かな?」
「あ、ありがとうございます…」


机に置かれた湯飲みから立ち上る湯気に含まれる芳香が気分を落ち着かせてくれる。両の掌に伝わる温かさを感じながら今一度窓辺を見遣ると、綺麗に並べ立てられた漫画本とお菓子が淡い陽光に照らされているのが視界に映った。
恐らくは毎日のように派出須先生が整頓しているのだろう。クッキーの箱の横に在る、藤君にも派出須先生にも些か不釣り合いなテディベアの縫いぐるみに小さく笑ってしまった。


「あの、…ハデス先生。何か好きなお菓子とか、ありますか?」






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