背伸びが出来ないおとなたち | ナノ
 


十回。スピーカーから流された授業開始のチャイムが体育館内に響いてから今現在に至る迄の間に僕の耳が捉えた、とある人物が吐き出した溜め息の回数が其れだ。
壁掛け時計の針は授業が始まって三十分経過した事実を示している。と言う事は件の人物は三分に一回のハイペースで溜め息を放出している事になるが、僕は三十分間ずっと同じ場所に居て溜め息をカウントし続けた訳では無いので、これは正しい記録及び計算だとは言い難い。今は閉ざされている唇は多分、実際の所もっと多くの二酸化炭素を生み出している。


「……はぁ…」


思わず僕まで肺を空にしてしまった。欠伸の伝染は時たま見掛けるし経験だってあるけれど、他人の溜め息に触発というか誘発というか、とにかく呼吸のリズムを左右されたのは初めての事になる。

ラケットがシャトルを叩く音があちらこちらから聞こえてきて、バドミントン用の細長い柄を振り回す腕がちらちらと視界に入る。美作君が何やら言い掛かり(台詞の一部分でさえ聞いていなかったけれど、今の彼が宣っているのは八割ぐらいの確率で言い掛かりだと思う。美作君の表情はどう見ても相手を褒め称えているものじゃあ無い。)をつけながら藤君に向かってラケットを振り降ろす、ブン、と言う風を切る音が右の鼓膜を掠めた。
藤君が気怠そうに振ったラケットに因り美作君のコートへと跳ね返ってきた羽根はその儘艶やかな表面を持つ床に落ちる。何処かから女子達の黄色い声、個人的な見解で言えば最早金切り声に近い歓声が上がるのを聞きながら、得点のボードを一枚捲った。三ゲーム連続で藤君に負けていながらも挑んでゆく美作君の姿勢は普通に格好良いんじゃないかと思う。


「…はぁ…。どうしよう…」


十二回目、カウント。
ネットを挟んで右に左に飛び交うシャトルの行方を追う事を止めて、緩慢な歩調で支柱の間を歩きながら呟く才崎先生に目を向ける。
伏せられた視線は片手に持ったバインダーに挟まれているプリントか何かを眺めているものの、内容は全く頭に入っていないようだ。恐らく読んですらいないのだろう、目線もぼんやりと一点を注視し続けている。


「……あの、才崎先生?」
「、え?ああ、明日葉君。どうしたの、何かあった?」
「いや、僕は特に何も…。ただ先生が、さっきから溜め息ついてるなぁって思って…」


「何か有ったのか」と言う問い掛けをそっくり同じ内容で訊き返しそうになり内心で若干慌てながら言葉を選び直して音にする。当の本人はまさか自分の溜め息が他人の耳に届く程に盛大なものだとは思っていなかったのか、長い睫毛に縁取られた両眼を丸く象って何度か瞬きを繰り返した。
背後から「おいアシタバ、何みのり先生と仲良く話してんだよ!」という美作君の声と女子の歓声が一緒くたに混ざって聞こえる。きっと不意を突かれて藤君に点を取られたに違いない。手探りで得点板に触れて、右側のボードだけを捲っておいた。


「き、聞こえてたの?そんなに溜め息ばっかりついてたかしら…」
「えっと、まあ…そこそこ。何か悩んでるんですか?」


生まれて十数年かそこらの子供が立派に勤める社会人に投げ掛ける質問としてはなかなかに節介な中身だとも思ったが、一応尋ねてみる。
どちらかと言えば才崎先生個人に関する悩みなのか、リップクリームの塗られた唇は暫く引き結ばれてからゆっくりと開いた。


「その、…この間のバレンタインデーの日に、派出須先生に私の鞄の中を見られて、ちょっと頬を…ひ、ひっぱたいてしまって…」
「えっ!?」
「それで、直ぐに謝れない儘今日まで時間が経っちゃって…」


派出須先生が女性の鞄を覗いた事と才崎先生がビンタをかました事、自分でもどちらに驚いたのかよく分からない儘にリアクションだけはきっちり取ってしまった。
細身の女性とは言えまがりなりにも体育教師、突発的に沸いた情動を原動力にして繰り出された平手打ちならばそれなりの威力を誇るように思えてしまう。そして其れ故に才崎先生が自らの行動を悔いているのだとしたら妙に合点がいく。

至極言いづらそうに語調を淀ませて語る先生の瞳はゆらゆらと泳いでいる。派出須先生がどうしてそんな行動に出たのかは第三者である僕に見当が付く訳も無かったが、異性に私物を見られた事で生じた気恥ずかしさを差し引いても頬を張ったのはやり過ぎたと思ったのかもしれない。


「大丈夫ですよ。ハデス先生は優しい人だから、才崎先生がその事を申し訳なく思ってるなら一言謝れば充分伝わります。先ずハデス先生が怒ってるって事も無いだろうし」
「…本当に大丈夫かしら…?」


今にもしゃがみ込んで自己嫌悪に陥ってしまいそうな才崎先生の様子に、不謹慎だと自覚はしつつも思わず口元が綻んでしまった。
その場で直ぐさま謝れなかった事が余計自責の念に拍車を掛けている、其の様が見てとれる程に自分の素を晒け出す所が、生徒に慕われる要因の一つなんだろうなとぼんやり思う。
生きる程に社会人達は敷かれたレールの上を背筋を伸ばして歩こうと躍起になるのかもしれないが、未だ自立の意味を解していない子供からしてみれば型に嵌まった大人よりも青さや幼さを捨てずに居る大人の方が好ましかったりするものだ。少なくとも、僕の場合は其の傾向が当て嵌まる。





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