目まぐるしい銀河に呼吸が詰まった | ナノ
 


当時のわたしの思考の働き方を何と称するべきだろう。そう、例えるならば、魔が刺したのだ。
学校帰りに立ち寄った本屋で購入した一冊の文庫を開く事を、如何しても家に行き着くまで我慢出来なかった。五つの小咄が綴られている短編集の、其の内の一つだけを読みたい欲求が膨れ上がってしまった。

加えて其処で視界に飛び込んできたのは有名な某珈琲ショップの看板と、出入り口の近くに置かれたメニューボード。未だ肌寒いこの時季にキャラメルマキアートの文字列を視認した上で店の前を通り過ぎるだなんて、そんなある意味正しくてある意味馬鹿な事をする決断は、あの時のわたしには出来なかった。だって右手には本屋のロゴが印字された袋がぶら下がっていたのだから。

レジカウンターで注文をして、何やら大きい機械だとかサンドイッチやスコーンが並ぶケースの前を行き来する店員さん達を視界の隅に捉えながらレシートを眺める。
印刷された時刻は午後五時三分。夕暮れ時に制服姿で珈琲を一杯、なんて周囲の大人は別段気にも留めないだろう陳腐な風景に憧れを抱いてしまうのが中学生の女子なのだろうか。

普段からこれ位の行動力を伴って動けたらどれだけ良いだろう、などとやたら冷静じみた思考を展開しつつ湯気を上らせるカップの乗ったトレイを両手に適当な席を探して店の中を進む。木造りの床の上ではローファーが少しだけ大きな靴音を奏でてしまうけれど、お客さん店員さん其処は見逃して、否、聞き逃して下さい。

壁を背にした、角の席のそのまた隣の席に腰を降ろす。テーブルを挟んだ向かい側の椅子に鞄を置いて、キャラメルマキアートをトレイごとテーブルに乗せて、文庫の入った袋は膝の上。
此処までは良かった。下校途中に寄り道して読書をすると言う憧憬は完成しつつあった。前置き無しに響いた横合いからの声が、右側の鼓膜を揺らすまでは。


「へえ。お前珈琲とか飲むんだな」


心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねた。成長期とは言え相応の堅牢さを有した骨はそう簡単に折れたりなどする筈もなかったけれど、急激に速まった鼓動と脈拍はなかなか落ち着かない。
何故気付かなかったのだろう、一番角の席に居たとは言え淡い色をした髪の艶やかさは何時でも健在だと言うのに。


「ふ、…っふ、ふ藤君、何で此処に居るんでございましょう…!」
「いや日本語可笑しいぞ。単なる寄り道だよ、喉も渇いてたし。珈琲ショップの珈琲って偶に飲むと旨いよな」


つらつらと淀み無く言葉を紡ぐ隣人に対して、わたしの唇は二酸化炭素を吐き出すのみ。日頃の情け無さっぷりが今現在もきっちりしっかりと発揮されてしまっている事実に目眩が起きそうだ。
小説の中では喜ばしく微笑ましく描かれる偶然の出逢いもいざ現実に具現化してみせれば只の驚愕が先に来る。あら何とか君偶然ね、なんて台詞を素面で吐き出す事はわたしに言わせれば無理難題。


「なあ花巻。英語のテキストの課題範囲、終わってる?」
「え、っ…えっと、あ、終わってる…けど…?」
「マジで?やっぱ頭良いんだな、お前。悪いけど23ページから教えてくれねえ?時制が苦手なんだよ俺」


コツ、コツ。店内の密やかな喧騒の合間を縫って聴こえた音に改めて隣席をよく見れば長くて白い指はシャープペンシルを携えていて、其の筆記具が指し示す先に在る丸い形のテーブルには英文が犇めく課題ノートと筆箱と中身が半分ほど減ったグラスが置かれていた。

わたしが座る席には湯気を立てる甘めの嗜好品がたっぷりと注がれたカップが鎮座し、右隣の席で広げられているノートの解答欄は何れも真っ白な儘で放置されている。
夕暮れ時に、制服姿で珈琲を一杯。そんな偶像に憧れていた事はこの際素直に認めるけれど、下校中の寄り道など比較対象に掠りもしない位に最も憧れてやまない人との勉強会がオプションとは予想外も良い所だ。
さあ、先ずは深呼吸をして鞄から筆箱を取り出さなくちゃ。





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10000ヒット記念/雨村さまへ

(title:うきわ)


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