お月さま1グラム120円 | ナノ
 


食事に行きましょうと誘われた事は嬉しかった。目的地に向かって加速する電車内で緩慢に身体を揺られている時も少し、いいえこの際見栄や意地を張らずに表現するならかなり心は浮わついていた。それはもう青空に放たれた蒲公英の綿毛のように。

ただ扉の横を駅名の書かれた掲示板が通り過ぎる度、頭の中は段々と妙に冷えてゆく。思い返せば私はこれまで学校の外でも中でも、普段着とも呼べないジャージ姿で派出須先生と顔を合わせていたが故に、今現在のようなスカート姿はおろかネックレスを着けている場面さえ見せた事が無い。
子供に指導に当たる立場に居る以上装飾品など余計と思っていたし其れは今とて変わらないのだけれど、まさかこんな場面で日頃の姿勢が緊張を催す材料になるとは思わなかった。

どうしよう、変じゃないかしら。心中で問い掛けた所で何等かの活路が見出だせる訳も無く、電車の扉に映る顔は情けなく眉尻を下げている。
其れが三十分前の私。


「美徳さん?」


呼び掛けられて我に返る。けれども一拍ばかり遅れて脳が認識した呼び名に、手繰り寄せようとした平静と冷静は再び遠いものになってしまった。
務め先及び勤務中に名を呼び合う事は流石に節度に欠けるからと、呼称の変更を私生活で時間を共有する時のみに限定したのは誰でも無い私なのだけれど、いつもとは異なる降車駅に洒落た料理店に名前呼び、とくれば今がデートなる物の真っ最中であるとはっきり意識せざるをえない。
派出須先生と交際を始めてから今日までの四十五日、私は一体何をしていたのだろう。交際の第一段階とでも言うべき名前を呼ばれる事にさえも慣れないなんて。

気付けば眼前のテーブルにはグラスが二つ置かれていた。白いレース模様が縁を飾るクロスの上、何とも上品な其処に鎮座する器の中で琥珀色の透明感溢れる液体が照明の光を受け入れて輝いている。
四角い硝子容器に満たされた其れの中に一つ、三日月が浮かんで小さく揺れる。


「これは…」
「少し珍しいでしょう?飲み物は林檎酒で、中に入ってるその月は砂糖菓子なんです。甘さは控えめらしいので、その儘食べてもお酒に溶かしても美味しいんだそうですよ」


細かな気泡を次々に生みながら沈む三日月は丸い形が何処か可愛らしく、琥珀色に包まれる様が綺麗でもある。
思わず緊張も忘れて見惚れている内に前菜のオードブルが運ばれてきた。薄切りにされたフランスパンの上に乗せられているトマトやハム、ルッコラの豊かな色彩も勿論鮮やかに卓を彩るけれど、煌めきの度合いで言えばやはり三日月が勝利する。


「…良かった、気に入って貰えたみたいで。好きな女性とこうして食事なんて初めての事だからどうにも勝手が解らなくて。貴女に喜んで欲しかったから、空回りに終わらなくて安心しました」


交際はおろか意中の相手との食事も初体験だと言うのに其の口の回りようは何なのだ、と、再び緊張に侵食され始めた思考の何処かで思うものの、まるで照れたように目線を手元のナプキンへ固定された儘で流暢とは言い難い言葉の羅列を披露されてしまっては今更私の頬の温度は平常時になど戻ってくれはしない。照れは伝染する。
どちらの照れが相手に移ったのかだなんて事は判る筈も無いし、答えを予想するとしたらきっと、何とも恥ずかしい事に互いが互いの期待だとか羞恥だとか嬉しさだとか指先の熱さだとかを貰い受けてしまったのだろう。

想いが繋がって四十六日目の今日、三日月を飲み干した後の帰り道では初めて私の方から手を繋いでみようと思う。






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(title:ラルゴ)
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