ふたり占め世界 | ナノ
 


金属製の蓋をゆっくりと開ける。途端に出口を見付けたとでも言うように四方八方へ溢れ出した湯気が、少し酸味の効いた香りを連れて鼻先を擽った。
熱気を放出している鍋の中で、トマトベースのソースの中に並べられたロールキャベツが震えるように揺れている。黄緑色の葉に巻き付けたベーコンの薄桃色には所々にトマトの赤々とした果肉がとろりとくっついていて我ながら美味しそうだと言える出来映えだけれど、肝心のソースが思っていたよりも沸騰していて直ぐに焦燥が頭の中心を覆ってゆく。
直ぐに出来るのは確かな利点とは言え、圧力鍋と言う物は未だに如何にも使い勝手が判らない。

次第にトマトの香りに包まれ始めるキッチンの只中でコンロの火を消し止めて振り向く。一続きになったリビングに広がる光景はロールキャベツを煮込み始めた時のものと全く変わらず不動を保っていて、思わず鍋に向き直ってしまった。
冷めたなら温め直せば良い事だし、時間を置いた方が味も染み込むのかもしれないけれど、やはり出来立てを食べて欲しいと思うのが女心だと思う。否、男の人だって恐らく同じ思いを抱く筈だ。

湯気を立てて赤と黄緑と薄桃に染まる今晩のおかずに、一先ず蓋。盛り付けよりも優先した方が賢明であろう事柄がリビングに在る。


「……ご飯、出来たよ?」


無言。正しくは無反応。あくまで私自身の感覚ではそんなにも小さな声で呼び掛けた心算は無かったけども、意識を何処ぞの深い場所へ放り込んでしまった人を呼び戻すには力不足だったらしい。
改めて歩み寄ってみても藤君の長い睫毛はしっかりきっちり伏せられた儘で、漫画本と左手が乗せられた胸が酷くゆっくりと上下している。

アルバイトから帰宅して数分、テーブルに置かれていた既に読破済みの漫画を数ページばかり捲っただけで夢の世界へ旅立ってしまったこの人は大分疲れているのだろう。幾ら今日は授業数が少なかったと言っても大学生活と仕事の両立はなかなかに苦労する。
せめて二人で住むマンションの一室内ぐらいでは気を休めて貰えたらと毎晩料理を作ってはいるものの、疲れの度合いを体現するかのように微睡む様を目にすれば其れを起こす事に多少の躊躇いが伴う。

けれども正直な話、たった一人の為に作った食事なだけに食べて欲しいと思う。ゆっくり休んで欲しい、ちゃんと寝て欲しい、作った食事を二人で食べたい、他愛ない話に興じたい。矛盾した願いばかり抱えている。
休ませてあげたいのに話がしたいだなんて結局は利己的になっている気がしてならない。おまけに全てが本音だから、取り急ぎ結論を纏める事も出来ないのだ。


「…麓介、さん。起きて下さい」


ソファの肘掛けに散らばった指通りの良い髪を見ていると其れを撫で梳いて更なる安眠に浸らせてあげたい気持ちが沸き出すが故に、首の辺りを見遣りながら取り敢えず肩に片手を置いて軽く揺する。
控えめに揺らす回数が三度目に達した折、頬に淡い影を落とす睫毛が震えた。


「麓介さん、」
「……良い匂いが、する」


眠気の現存も露に紡ぎ出された開口一番の台詞の内容に思わず口角を緩めてしまう。起き抜けにリビング内に漂うトマトの香りに反応してくれた事も嬉しければ、其れを良い匂いだと称して貰えた事も私の胸中をじわりじわりと暖める。
天井を見上げていた藤君の色素の薄い瞳が此方を向き、続いて整った顔に何処となく申し訳無さげな色が浮かんだ。


「悪い…寝ちまった。待たせたか?」
「ううん、ご飯は今出来た所だから気にしないで。疲れてるならお夕飯はもう少し後にする…?」
「いや、食うよ。腹減ったし、お前の料理旨いから」


欠伸を噛み殺した唇が綺麗な弧を描く。利他的とも利己的とも言い難い思い達を一緒くたに抱く私の心だけど、何でも無い事のように告げられた言葉一つでいとも容易くメレンゲ並みにふわふわと浮わついてしまうようだ。
出来立てで熱々のロールキャベツを食卓に並べる。其れが今の私がするべき最も優先順位の高い行動なのだと思うと、もう勝手に緩む自分の頬を引き締める気さえ起こらない。

幸せになるチャンスは藤君が其処ら中にばらまいてくれる、なんて、至上の贅沢だ。私が身を置く日々は何時だって些細な切っ掛けで煌めく。





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(title:にやり)
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