呪文は花屋で買えない | ナノ
 
 


「こんにちは、ユニちゃん、ブルーベルちゃん」
「あ、…こんにちは、沢田さん」
「にゅ、何やってんの綱吉。学校は?」


私はデュラムセモリナ粉百パーセントで作られたスパゲティの麺と、予め適度な大きさにカットされた数種類の野菜が詰め込まれているサラダ用のパックを。ブルーベルはホールトマトの缶詰二つと厚切りベーコンを、それぞれ同じスーパーのロゴが印字されているビニール袋の中に入れて歩いていた。
これからハルさんの両手に因って昼食に変身する予定の食材を手に、ブルーベルの数学の宿題の難易度に対する愚痴を聞きながら歩いていた、筈。

そう、確かに私はブルーベルの話を耳に入れていたし相槌も打っていたし時折返答を寄越してもいた。それでも尚、雑踏に紛れて紡がれた柔らかい声をしっかりと拾ってしまったのは、私の聴覚が鋭敏なのか或いは私の意識が存外薄情だったのか。
思わず視線を向けてしまった先に温和な面差しを見付けながら、決して適当に相手をしていた訳では無いのだと心中でブルーベルに向けて補足する。文字通り無意味な行いである事は重々承知していたけれど何だかそうせずには居られなかった。


「今日は午前中で終わりなんだ。集会と掃除だけだったから」
「………」
「どうしたの、ブルーベル」
「綱吉ってやっぱり高校生に見えない」
「……うん、三年生になった今も偶に言われるよ」


ぽんぽんと弾むように交わされる会話。其れを両耳の鼓膜で受け止める傍ら、私は漸く夏の存在が鼻先まで迫っている事に気が付いた。沢田さんの制服が半袖になった事には勿論気が付いていたけれど、太陽の高さにはあまり頓着していなかったかもしれない。
沢田さんがもうすぐ夏休みを迎えるのだと思うと、頭上から陽光が落下してくる初夏の只中を歩いているというのに不思議と暑さが感じられなくなった。

301号室に住んでいる沢田さんと、ブルーベルとハルさんと共に302号室に住んでいる私が一番顔を合わせる機会が有るのは、学校がある平日の朝だ。けれども、夏休みが来る。
遅刻に繋がるかもしれない時刻に家を出たが為に急いでいても、自分の自転車の鍵を外している最中でも「おはよう」の一言を返してくれる沢田さんには九月にならなければ会えない事になる。偶然エレベーターに乗り合わせる朝も、頻繁には訪れなくなる。
勿論、私にもブルーベルにも夏休みは平等に与えられるのだから、私だってセーラーの合服に袖を通す機会は九月まで無いのだけれど。


「大丈夫?」


顔に影が掛かる。不意に明度の落ちた景色に思わず顔を上げると、私の其れよりも大きくて骨張った輪郭が窺える片手が額の上に在った。それよりも更に上方に、ほんの少しだけ眉尻を下げた沢田さんの顔。思いの外至近距離に在る其の表情が浮かべる色は外気の暑さ故の不快感では無い。
顔に影が降りる、よりも前に私へと向けられた一言を思い返す。そうして沢田さんが湛える表情とブルーベルの窺うような眼差しの原因を知った途端、今度こそ私は黙り込んでしまった。

暑さでぼうっとしたのだと、言えばそれまでだ。沢田さんもブルーベルもきっと納得するのだろうし、いつの間にか止めてしまっていた歩みも再開せざるを得なくなる。
そんな風に気温と空模様にそぐわない心持ちの儘に脚を動かした所で、私の小さなさみしさは、真夏に食べるアイスみたいに溶けてくれなどしないのに。


「…もしかして、気分悪い?暑気あたりかな」
「ニュ、何で早く言わないのよユニ!知ってたら荷物持たせたりなんかしなかったのに!」


取り敢えずは口端へ笑みを乗せて答えようと思ったのだけれど、二人からは誤解も含むそんな台詞が寄越された。ほぼ同時に、私の口が否定を音にする前に右手から重みが失せる。
少し持ち手の部分が伸びてしまったビニール袋が沢田さんの左手にぶらさがり、右手は私の前髪にそうっと触れてきた。


「ユニちゃん、大丈夫?頭痛いとか、くらくらするとかある?」
「あ、あの…いえ、大丈夫です」
「…そう?君自身が平気だって思えるんなら良いんだけど」


あなたが触れるとくらくらも引き起こされそうですが。とは言える訳が無い。首を何度か縦に振って今度こそ一つ笑みを返してみせると、私の顔に視線を注ぐ二人は揃って何かを探るように此方を数秒眺めてから足を動かし始めた。其れに続く私の頬をぬるい風が撫でる。
ああ、つい今しがたまで私の頭を掻き混ぜていたものは一体何だっただろう。額に残る微かな体温の欠片が思考を柔らかく遮ってしまうものだから、もう、冷静に成るのが吉か凶かも判断出来ない。


「あ、そうだ。夏休みになったらさ、君達の家にお邪魔しても良いかな?」
「、えっ」
「家?ハルに聞かなきゃ良いかはわかんないけど…何で?」
「来週末から一ヶ月、母さんが仕事でイタリアに居る父さんの所に滞在する事になってさ。それは良いんだけど俺自炊とかあんま出来ないから、一ヶ月やっていけるように良ければユニちゃんに簡単な料理とか教えて貰えないかな…なんて…」
「……え、っ」
「ぷ、綱吉なっさけなーい。年下のユニ頼る気満々じゃん」
「仕方ないだろホントに料理はからっきしなんだよ!前にユニちゃんにご馳走になったオムライス旨かったし、ああいうの作れたらなって思って」
「あ、ユニのオムライス好き!バターが効いててすごく美味しいの、グリーンピース入ってないし」


グリーンピースが入っていないのは、グリーンピースが嫌いなハルさんとあなたがそもそも買わないからなのだけど。違う、今言うべき事はこれでは無い。
今はとにかく快諾して、出来る事ならば歓迎の意も伝えて、ハルさんにはお願いをして……そうだそれから、新しいエプロンを買わなくちゃ。
制服姿の沢田さんが九月までお預けでも、最早一向に構わない。夏休み大歓迎。






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