呪文は花屋で買えない | ナノ
 
 


フローリングの床の上を歩く度に、ぺちぺちと音がする。足裏が鳴いているとも床が立てているとも言い難い其の音を聞き流しながら磨り硝子の嵌め込まれた扉の取っ手を控えめに回して直ぐに、さっぱりとしていながら絶妙な加減で朝特有の空腹感を刺激する匂いが鼻先を撫でた。


「おはよう、ハル」
「あ、おはようございますブルーベルちゃん!ユニちゃんはまだですか?」
「髪をとかしてたわ。もうすぐ来るんじゃない」
「二人ともナイスなタイミングです。お野菜たっぷりのスープが丁度温まった所なんですよ」


何があった訳でもないのに今日も今日とて目尻を若干下げて、「楽しいです」と顔に大きく書いて笑うハルは、十以上も歳の離れているわたしやユニに対して敬語を使い続けている。
同居が決まった折に敬称やら丁寧語やらの払拭を提案したけれど、最早癖だから、という理由で却下されてしまった。同じく敬語をオプション化させているユニの口調も初めて顔を合わせた日から今日に至るまでの間相変わらずで、通う学校では遂に彼女の渾名が「お嬢様」に決定された。マンションの三階住まいな時点で金持ちの枠組みからは外れているだろうに。
時々無性にわたしだけが子供なんじゃないだろうかと心配になる。それだけハルとユニの言葉遣いはしっかりとしていて――ハルが生み出す台詞の中に度々擬音や横文字が混入している事を差し引いても、どうにも敬語というものは大人びた印象を纏っていた。


「ねえ、ハル。わたし変かな」


鍋の中でくつくつと気泡を生んで煮えているスープに負けないように声を出したつもりだったけれど、唇から零れた其れは存外小さかった。だけどハルの耳はわたしの発言を逃す事なく聴き拾ってくれたらしく、夜のように黒々とした瞳と睫毛を瞬かせてからコンロの火を止めた。
スープは直ぐに黙る。つけっぱなしにされたテレビから洩れてくる、何処かの局のキャスターがニュースを読み上げる音声が間を埋めたけども、わたしの足の裏はフローリングに因って冷やされた儘だし喉だって渇いていて、安心なんて少しも抱けやしない。


「ハルも、わたしと歳が変わんないユニも敬語で話してる。桔梗だってそうだった。ハルは敬語が好きなの?」


妹を宜しくお願いします、と微笑んで、アメリカへ留学に行った桔梗。あんなに沢山一緒に過ごしたのに、此処に来てからはハルとユニとも一緒に居たのに、三人の敬語は全くわたしには伝染らない。影響もされない。
それどころかわたしの脳は漫画から受ける刺激は何故だか良く吸収して、頭蓋を「ずがい」と読めるようになってしまった。一体何処で役立つ知識なのだろう。そんなものよりも、敬語を習得した方が良いように思える。

スープの匂いを嗅いでから三十秒足らずの時間でそんな事を考えたわたしの胸中はすっかり自信と落ち着きを失くした。熊のキャラクターが左の袖に一つだけ刺繍された寝間着の裾を指先で弄る。
世間一般の感覚に当て嵌めれば、より「らしい」のはわたしなのかもしれなかったけれど、このあたたかいリビングで疎外感を味わう羽目になるのであればそんな太鼓判は要らないのだ。

切り揃えた足の爪を見下ろす。途端、むぎゅうとでも効果音が付くのではと言う位の勢いと密着度で以てわたしの頬はハルの柔らかな腹にくっついていた。エプロンの生地の感触とハルの腕のあたたかさが伝わる。スープなんてそっちのけでテディベアよろしく両腕でわたしを捉えたハルを見上げると、やはり其の顔は起因の知れない至福に彩られていた。


「はひー、ブルーベルちゃんてばベリーキュートですー!」
「は、…ええ?何でそうなるのよ」
「ハルとユニちゃんが敬語で話すから寂しくなっちゃったんですよね?」


背筋がぎくりと強張る。虫も殺せなさそうな顔をしている癖に何の躊躇いも無く人の急所を突いてくるなんて、ハルは思いの外意地が悪い。
素直に頷いてやるのも何と無く癪で、だけどあたたかくて柔らかいハルの腕の中はどうにも落ち着いてしまうから、一先ず黙って腹に抱きついてみる。そうするとハルの口から今度は含み笑いが漏れ出した。


「良いんですよ、ブルーベルちゃんはそのまんまで。お洒落で、ちょっとおませで優しくって、難しい言葉も言えちゃう元気で甘えんぼなブルーベルちゃんがハルは大好きなんです。何時ものブルーベルちゃんが、好きですよ」


何時もの、と言う部分を強調して話すハルの声に、何故だか余計に抱きつきたくなった。目下抱擁は実行中だというのに。
頬がじわじわとあたたかくなってくる。誰が甘えんぼよ、と抗議したかったけれど、今はスープよりハルが良いと思うのは事実であるが故にわたしは閉口するしかなかった。心の中で白旗を挙げておこう。






t:にやり
 
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