あんまり待たせるのは酷というものです


かの有名な犬の像のまえで紫色の上着が目についたのは本当に偶然だった。こんな人の行き交う場所で、まさかあり得ないとは思ったけれど。馴染みの顔に恐怖を貼りつけて背を丸めているから遠目にも悲壮感が増していた。

「あれは…大丈夫なの、いろいろと」

待ち合わせにはうってつけのランドマークだ。周囲には今まさに逢瀬をはたした男女がより添い、楽しげに声をあげる女の子の集団がたむろする。

誰かが通りかかるたびに怯えて肩をすくませる松がさらに小さくなるのを見かねて、腕時計を確認した。まだ時間に余裕があることに頷いて、犬の像へと向かう先を変えたのだった。

なんて不憫な。そう思えるのは仮にも私が松の友人だからで、目線を決して上げずに足元のわずかな空間の中できょろりきょろりと彷徨わせる姿は控えめに申し上げて不審者だった。悪いけれど他人だったら私も遠巻きにしていた。マジでごめんだけど、致し方ないこれは。

きっと周囲の人々は松が思うよりも彼にばかり注目しているわけではないけれど、当の本人は何かしらの圧に耐えかねるように肩身を狭くしている。陽キャの雰囲気にでもあてられたのが、ほぼほぼの要因なのだろうとは思う。

浅い呼吸で顔色の悪さまで分かるほど近づいてもまだ私には気付ずに足元の影を追うのに忙しそうにしている。これ急に話しかけたらどっか飛んでいっちゃいそうだね。
松がいよいよ我慢ならなそうに身震いして、スタジャンの襟元からのぞかせたパーカーのフードをこれでもかと引き出して目深にかぶると、両手を不安そうに口元で丸めてなんだそのお手手は。けしからんな。

より背中を丸めて、あれじゃあ余計に気付いてもらえなさそうだ。
私よりもタッパはあるのに、ああも申し訳なさそうに縮こまって。その状態で、よく頑張ってるよ松にしては。いちばん不得手にしてる場所だろうに。
そこでピンときた。

「そうまでして会いたい人がいる、ってこと…!?」

天才的な思考にピシャァと背後に雷が落ちた。あまりの衝撃に足元がふらつく。え、そういう…こと!?

松に訪れたかもしれない春に思わずクラッカーを探して荷物をまさぐるけれど、普段からそんなパーティグッズを持ち歩くわけがないので取り出せたのはいつかのレシートだけだった。見なかったことにしようと思う。

不規則な折り目がついたレシートをバッグに戻し、同時に少しの冷静さを取り戻した私はこうしてはいられなかった。松の大事な人だ、拝めるものならこれ幸いと人の流れに紛れて迂回した犬の像の反対側でうかがうこと暫く。目深なフードで視界の狭まった松のすぐ側を抜け、容易く待ち人Aとなった私は一角を陣取っていた。

手首側につけた腕時計の長針は、松を見つけてから4つ目の数字に差し掛かろうとしていた。なにかと要りようになるからと口実をつけて新調したばかりの華奢なデザインのそれが早くも大活躍だ。
松の待ち人はまだ来ない。関係ないはずの私の心臓がロックなビートを刻みはじめていた。颯爽と流れる人波からニアピンする陰があると松以上に体を跳ねあげて、待ち人かもしれない相手を念入りに観察する。

綺麗めの優しそうなお姉さん…ではない。小柄で可愛らしい妹タイプ…でもない。気の強そうな小悪魔風…でもない。よかった、最後のは私の嫌な記憶がよみがえりそうだから紹介でもされたら一度は逃げだしてしまいそうだ。もう腹に風穴をあけられるのはごめんだもの。
まさかの屈強な大男…でもない!このままでは期待と不安で胃がひっくり返ってしまう。

だれ…誰なの松の待ち人は…もう誰でもいいから立ち止まってくれ。いや誰でもはよくない。

もう心音でサンバ踊れそう。

このままでは私まで待ちぼうけ認定されてしまううえに、寄り道できる時間もあとわずかだというのに時計の秒針は容赦なく進んでいく。

しかもさっきから、いかにも職務に則って質問してきそうな方々がうかがっているのだ。あ〜待って、待って下さいきっともうすぐ待ち人来たりだから。松はおとなしく待てる子なので、まつだけに。

密かな応援もむなしく、フードの紐を思いきり引き絞った松が肩で息しはじめるものだから私はそっと目を閉じた。分かる。松もきっと限界だった。暴れださないだけ誉められたものだとは思ったけれど、手帳とペンを手にした方々が二人、松に声をかけにいく姿に待ってくださいとはもう言えなかった。お仕事お疲れさまです。
そして正当な職務を止められない私はバッグを掛けなおし、犬の像の陰から足を踏みだした。

「あの、私の連れです…」

彼らの間に体を滑り込ませたのは、正しい行いを妨害したかったわけではない。震えるわ息も荒げるわの身バレを避けるように顔を隠した男が何十分も立ちすくんでいるのを見逃すほうが問題である。でもまあ、人が無限にわいてくる場所に晒されて待ちぼうけをくらっても松が頑張ったことを知っているのでほんの少し助け船を。友人ならそう思って然るべきじゃなかろうか。

「……ハル」
「松、その荒い息づかいをやめなさい」

手帳を開いたまま目を丸くした方々が、割りこんだ私が知り合いであるかの形式だけの事実確認を松に投げた。
私の袖を引き、徐々に上へ手繰って腕にすがり付いた松が絞りだした肯定に空気のなごむ気配を感じる。

疑わしきを罰する世界でなくてよかったねと安堵したのもつかの間。
手帳を仕舞うと一転、人好きのする笑顔になった彼らのデート楽しんで、と放った厚意という名の無慈悲に私は松に代わって胸を痛めたのだった。新手の捨て台詞かなんかかとすら思った。
ここに、今まさに自分の苦手を押して会いたかった人から恐らく約束を反故にされた松がいるのだ。その心情はいかばかりか。

自分に置き換えてみて、想像上の海岸で海のバカヤローと叫んでやった。

私にひしとくっつく松が落ち着くまでは往来であってもこのままでいてやりたくはあったけれど、あと少しでタイムオーバーだ。私はなにも、目的もなくぶらつくためにお出かけをしたわけではないのだ。

「松、今日はもう帰りなよ。こんど、松の気がすむまで私が付きあってあげるからさ、なんでもいいよ、松の好きなことやろう」
「ハルが、俺と…?」

顔の半分を私の肩に埋めた松は、また幸せ借金がかさむ、と震える声で嘆いた。

「せっかくの戒めが…不幸返済が追いつかない…」
「なにを言ってるのかしら、今にも泡吹いて倒れそうな松が。私といると幸せすぎて死んじゃうの?」
「…二次的にそうなるかも」

だから帳尻を合わせて、バランスをとらなければならないのだと。でもそれ、私なんとなく分かってしまうんだけど松はどんな些細な幸せにも全力で不幸を求めるでしょう。
わざわざ手ずから天秤を調整しなくても長い目でみればどうせ、良いことも悪いことも交互に同じくらいやってくるものだと昔の誰かが残しているじゃないか。
なんとかはあざなえる縄のごとし、ってさ。

つまりさっきの待ちぼうけがどん底まで突き落としてくれたから今日付けの返済が超過した分、私のことくらいは素直に受け入れろよ、ということだ。

「いやハルは簡単にいうけどさ」

眠たげな瞼を押し上げて大きめの黒目が丸く私をとらえる。まるでそれまでの話は置いといて、という言いぐさで腕にしがみついたままの松が意見するには、俺は猫がすきだから、と。なんでいきなりそっちに飛んだの?
まず話が置いておかれる意味がわからない。私の内容はずっと地続きで、飲んだくれの愚痴大会のようにあっちこっちで奔放にはしてなかったでしょうよ。
松の口が私の服に埋もれて何事かをもごもごさせる。

「と、と友……だち、だから。一日歩いて別にいなかったらそれでいいけど、会えたら相応の対価は支払わないと…次は一生会えなくなるかもしれないから」

いいことばっかりあったら、残るのは苦ばっかりでしょ。と、たいへん松らしいご高説をいただいた。それが私にも当てはまるから、待ちぼうけの地獄を差し引いてなお自分の首を締めなければならないらしい。
そんなこと言ったら松、あんたの待ち人よりも私のほうが大事みたいじゃないの。

手のひらを上にして差し出せば条件反射でお手をする松を、駅の改札まで引っ張っていく。

「だれも待ってませんけど……さっきまではまあ、一緒にいたか。ひとりになったらもっと戒められると思って」

手を引かれるままおとなしく着いてきた松を、抵抗しないうちに帰してしまえ、といいかげん往来の目から引きはなそうとした私に襲いくる新たな衝撃。

ちょっと待って。すでに会っていただと…!?

時間も迫ってるここで新しい情報くるの?

つまり松は大事な人と至福の時を過ごしていたのに、よりによってこんな人混みのなかにひとり置いていかれて今まで立ち尽くしていたというわけだ。つらすぎる。

松の気持ちを考えてくれ。どこぞのお前のためにこんな、普段は絶対に避けるようなところに乗り込んで震えていたなんて。
だめだ感情移入するわ。

私はまた頭のなかの水平線に向かってペアリングを振りかぶった。

「じゅ……お弟と来てたんだけど泳ぎにいっちゃったから」

あ、ペアリング無事でした。

怒涛の新情報で人生を一時停止させてほしいけれど時は無常にして無情。せめてもの反抗で足を止めて待ったをかけたら、あたりまえに手を引かれていた松も立ち止まって私の斜め後ろに控えた。すぐ横を追い抜いていく通行人から距離をとってこちらに寄り添ってくるのを見るに、さっきとは打って代わって苦手を我慢する気はもう毛ほどもないらしい。

頭上から降ってきた松の訝しんだ声に生返事をかえして、脳みそにぶちこまれたアレコレをなぞる。整理してみれば、わりとはじめから私の思い込みで事を進めていたのでは?

松にまた名前を呼ばれて足もとをスロー再生した。

本当に、イマジナリーの松の大事な人だったってこと?
いや兄弟も大事な人といえばそうだけれども。

「この辺りにプールなんてあった?」
「あいつバタフライ得意だから」
「へえ…弟さんはフィジカルに自信ニキであると…」

もう新しいこと頭に詰め込まなくていいよね。だって意味がわからないもの。バタフライができるからってプールがなくても平気とはならないでしょうよ。

ちょっと平静を装おって話をなげたのが間違いだったと、混乱し通しで皺が寄ってきた額を揉む。

「ハルは……なんでいたの」
「ん、ちょっと野暮用でね」
「そ…さすがハルくらいになれば、こんなとこも来ほうだいか。俺とは違うよね」
「私そんなメンタル鋼じゃないよ。見てこの格好、バッチリきまってるでしょ」

松の視線は、見上げた私とは合わずに下へおりていって爪先までを往復して戻ってきて納得したように頷いた。

「完璧な余所行きですね」
「でしょ、松に言わせれば慣れてる私だって、こんなとこ、に来るときは気合いいるんだから」
「ふーん」

引かれる手に抵抗のなかった松がより素直に横についた。以前より幾分も調整がきくようになった力加減で握り込んだら、あとは繋いだ手と、そこから辿って私だけを視界におさめてもう活気のあるざわめきは気にしていなかった。わずかながら松に寄せたセリフでの気休めだったけれど、それで十分だったみたいだ。
賑やいだ場所には少しの憧れと緊張を伴うものなのだ。

あるがままの格好で特攻できる松がある意味で勇者だよ。しかし私はもっと他のところで褒めたいと思うのでそれはスルーした。

駅構内までを連れだって、より人の密集する改札付近でもまれそうな松を壁際まで引きずっていく。松は少し人の間を縫っただけで何人かに接触し大げさに飛びはねた弾みでピンポン玉になりかけていた。周りを見ないからだ、と分かっていても口にするのは憚られた。すでにビキビキにひび割れた彼の心臓がその追い討ちで惨たらしく散りそうなくらい、一瞬で精気を失くしている。

よろけて壁にもたれた松にこんな調子でよく犬の像まで行けたなと首を傾げたけれど、その時はまだ弟さんと一緒にいたことを思い出して納得した。そうだね、松ひとりじゃキツいよ。
もしかしたらさっきまでだって、ひとりでは帰れないから内心途方にくれていたのだったりして。

それいけ、ときっぷ売り場に向けて解き放とうとすれば、予想に反して踏みとどまった松がまた黒い目を丸々とさせた。
私が前方へ振って離そうとした手を逆に握りしめて「は?」と困惑をぶつけてくる。

「じゃあ、私はここまで」
「なんで…。帰んないの」
「まだ用事終わってないからね」

時間けっこうヤバイ、と腕の時計を軽く振ってみせれば、もごりと駄々をこねそうに動いた口を尖らせて素っ気ない言葉で返された。松も、あとが詰まっていると言われてしまうと引き止めようがないらしく私の予定を変えてまで押し通そうとはしなくて息をつく。

駅までは連れてきてあげたのだから、あとはひとりでできるもんってしてくれないかな。

「……わかった。改札までは見送るから」

見る間に俯いた松があまりにも名残惜しそうに指をほどいていくから、ついうっかり滑ったのは私の口だ。

遠慮がちにうかがってきた松の目尻がじわりと血色よく染まって、私はぐうと締めた喉の奥からついでに出かかった文句を飲み込んだ。

ICカードを持たない松がきっぷ売り場に並ぶ。ひとり、またひとりと捌けていく列の後方で順繰りに前へ詰めている。
だから初めてのおつかいじゃないんだよ、と自分に突っ込みを入れつつ、前後を知らない人にかためられた松がきちんと場に即した行動をとれているのが無駄に感動を誘った。わりと直前までが社会に不適合すぎて。

順調に機械の前まで押しだされガマ口の財布を開くと、それまで滞りなくこなしていた動きに不意に迷いがでた。手にとった小銭をガマ口に戻し、頭上の路線図と料金表をうろ、と指さしで辿る。

再び握りしめた小銭を投入してからも何故か決めあぐねているから、まさか帰りの電車賃にも満たないのかと私はバッグに手を突っ込んだ。今度は目当てのものをすぐに探り当て、引っ張りだした財布が日の目をみる前に後方の圧に屈した松は切符の購入を済ませてしまったらしい。適当に押したわけじゃないでしょうね。

挙動不審をにじませてサカサカと戻ってきた松を迎える。胸の前に両手で抱え込んだ切符を指先で遊んでいる。

「どしたの、ちゃんと買えた?」
「ん」

どことなく決まりが悪そうに、松はこちらに向けて切符の印刷面を突きだした。顔を逸らして唇を尖らせ、私の反応を待っているみたいだ。
やっぱりガマ口財布がすっからかんで苦し紛れに選んでしまったのだろうか。とりあえず電車に乗せて、着いてから精算できるようにいくらか持たせておこう。

正直はじめのうちは、大事な人との仲が進展して松の門出を祝う暁にはいくら包もう、とか飛躍して考えたりしていたのにこんな形で金を握らせることになるなんて。

どれどれとどこまでの切符を買ったのか駅名を覗き込んで、そこが私のアパートの最寄り駅だとだれが想像できたか。たしかに松の家方面へ行くよりはここから近い料金で済む距離だ。本当に小銭が足りないという背景があったかは分からないけれど、間違いなく松の意志でこれをアピールしている。

改めてみとめて私は目を覆った。

この男のいじらしさをどうしてくれよう。

「さっさと終わらせて帰るからね」
「べつに何時でもいいけど」

などと言いつつ、晩ごはんだって私が帰るまで食べずに待っているくせに。

遅くなったらそわそわして部屋の隅に丸まりにいってしまうだろう松の姿をたった今見送ったばかりの彼に重ねて、私は笑うくらいに走りにくい靴で猛ダッシュをきめた。

私の予定は少しばかり押してしまったけれど、自分から首を突っ込んだのだから仕方ない。
不問に処す。




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