おつかいとは訳が違います


正式にハルに合鍵を下賜されてから、存外はやく使う機会が与えられてしまって僕はとても戸惑っていた。曰く、課題が忙しいから勝手に入ってきて、とのことだけれど、ここにきて鍵を持ち歩くことを躊躇している。
借り物だった時にはあんなにすんなりと使えていたのに、カバーをつけて愛着が沸き、いちど大事に保管してしまえばそこから取り出してもし失くしてしまったらと考えると身も凍る思いでとてもじゃないがお宝入れの蓋はあけられない。あの時の僕はよくあんな軽々しく使えたものだよ、首を絞めてやりたい。
ともかく、それでほとほと困っていた。

万が一にも紛失はできない。どこぞの誰が拾うかも分からないし、そんな危険なこと…!せっかくハルに貰ったものなのに僕のせいでなにかあったら…朝ごはん出てきそおえっ…。

とりあえず新聞でくるんでみた。今朝父さんが読んでいたもの。広告は母さんがまだ目を通してないだろうから省いておいて、一枚、それじゃ心許ないからもう一枚とやっていたら朝刊がぜんぶなくなった。さらに母さんが溜め込んでいる風呂敷を一枚拝借して持ち手ができるように結んだ。

「これなら結構いいかも…」

荷物を持っているという存在感があって安心できる。しかしいざ玄関にきたら、こういう所に一旦置くのが忘れる原因になるんだよ、と脳内のどこかからもう一人の僕が警告するものだからまた不安が煽られた。
これだけじゃ駄目だ。なにか。なにか絶対に置き忘れない入れ物を見つけないと。

戸棚、物置を片っ端から探していって、六つ子部屋の押し入れからまったく僕の趣味じゃないリュックを引っ張り出した。ピンクで大きめ、ポケットは多いけど装飾は少なくてハート模様に刺繍がしてある。たぶんトド松のだけど、ちょっと借りてもいいよね。

口を開けて入れてみると、随分なかが広くて揺さぶられそうなのが気になった。僕の服を緩衝材にしてみたらいい感じにぎゅうぎゅうに詰まったのでいよいよ背負い、外の世界へ行かんとすればこういうときに限って鉢合わせする。

「あれ?一松兄さんどっか出かけ…あ!それ僕のリュックじゃんもー勝手にぃ!」
「い、いいでしょちょっとくらい…すぐ返すから」
「悪いけど、僕も今から使う予定だから貸してあげられないよ」
「ちっ」

仕方なくずるりと服のかたまりを抜き出したらトド松が気味悪がって悲鳴をあげた。

しかし参った。タイミングが悪かったせいで振りだしに戻ってしまった、これは由々しき事態だ。
いっそハルが手透きになるまで行くのを控えるかとも候補に挙げてみたが、結局それがいつになるのか目処が立たないから安易に実行してはいけない。

「そしたら握りしめとくしかなくない?ずっと持ってればなくなんないっしょ」
「…おそ松兄さんもそう思う?」

大事なものを失くさずに持ち歩くには、と意見を求めて返ってきた答えに頷く。おおむね同感だ。究極にはそれで強行するしかないかなと思っている。

「こういうのは、移動中ずっと視界に入るようにしておくこと、それと使うときにすぐ取り出せるようにしておくのも大事だね」
「なるほど、やっぱり経験談は違うな」

アイドルグッズなんかをよく手荷物に持ち帰るチョロ松は説得力かあった。
大事なものの存在を明らかにしてなるべく意識の外に出さないようにすること。なるほどね、方向性は間違っていないみたいだ。

「普段バッグとか使わないしな。小物入れ…財布とかどうだ?」
「あ?」
「いやその…」
「たまにはいいこと言うじゃねえかクソ松」

早速僕の財布、紫色のがま口に入れるとなけなしの小銭と相まってほどよい重みを感じる。光明が見えた気がしたけれど、常に視界に入れるとなるとやっぱり握りしめ一択になるんじゃないのこれ。
ためしにパーカーのポケットにおさめてみる。上半身を捻って揺すったりジャンプしたりして転がりでないか検証したところいや普通に不安しかない。

「分かった貸して。首から下げれらように紐つけてあげる」
「まじか、あざーす」

ボクのリュックを使わなくて済むなら何でもいい、と協力に乗り出したトド松が、がま口の両端になんだかよくわからないカラフルな糸を寄り合わせた紐を縫いつけてくれた。いわく、趣味のなにがしかで余ったなにがしからしいのだけど、ハイカラな名称すぎて脳みそがまともに聞き取るのを拒否したからよく分からなかった。 
え、これ切れたりしないの。大丈夫なの?

紐を手に巻きつけて力任せに引っ張ってみたら見た目のわりに頑丈で感嘆がもれた。首にかけて、不慮のなにかを想定して負荷をかけても大丈夫なことを確認していくたびに何故だか不安が募る。
次はちぎれるかもしれない。ダメージの蓄積が、次に限界を迎えるかもしれない。はー、無理。
残念なことに僕は石橋を壊れるまで叩くタイプのクズだったのだ。

「兄さんのその両手は何のためにあるの?大事なものを守るためには時に自由を投げうつ覚悟が必要だよ。それをしなかったとき、失くした呵責に兄さんは耐えられるの?」
「…つまり?」
「手で持ってればなくさないよ!」
「やっぱそこに行きつくよなぁ」

最終的に、猫目になった十四松のアドバイスも取り入れたスタイルが完成した。
首から下げたがま口財布を両手で包む。うっかり手が離れても紐に繋がってるし、紐が切れても僕の手からはこぼれない。常に目の届く範囲にある。保険に保険をかけてこれが僕の最強装備だ!と意気込んだのもつかの間、さっそく玄関で手を使えない不便さに直面した。

仕方なく腰をおろしてサンダルを足で引き寄せる。

「………」

少し考えてやっぱり靴に履き替えることにした。両手が使えないうえに足元も不安定じゃハルのとこ着くまでに日が暮れるでしょ。安全第一。

引き戸の格子にケツを引っかけることで無事に手を使わずに玄関を突破し、車通りを気にしながら道路の端っこを歩いて真面目に横断歩道を渡った。もちろん信号が点滅したら余裕をもって立ち止まったよね。
もう手汗がやばいんだけど。ねえまだ?まだ着かないの?

コーポなんとかだか棟の名前が書いてある銘板を通りすぎ一段ずつ外付けの階段を上ったらあとはすぐハルの部屋だ。ここまで来たらあと一息、合鍵を使うだけ。

出す?鍵を?がま口開けて出すんですか鍵を、それで僕に使えって?いや手ぇぬめってうっかりすぽんっていかない?
冷静になりかけた脳みそがまた弾けて奇跡的な軌道でどこまでも転がっていく鍵の妄想が止められない僕の目の前で、唐突にドアが開かれた。

「あ、よかったー!松なかなか来ないしスマホも電源切れてるし、途中まででも迎えに行こうかと思ったのよ、」

ふぁ…。じゃあもう最初からそうしてもらいたかった…。パーカーのポケットに一応スマホは入れてきていたけど、鳴っても絶対に確認する余裕ないし気が散るから消してたんだった。全く意味ないねそれね。

両手でがま口財布を握りしめていた僕はようやく肩の力が抜けた。これで安全な室内に入れる。松野家までの帰路がまっていることも忘れてゴールする気まんまんだったのに、どうしたことかドアを支えていたハルの力まで抜けてぱたん、と無情な音がたてられた。え、しまっ、え!?

「あ、あけてハル……」

お、怒らせた?忙しいって言ってたのにこんなことで煩わせたから。
そういえば閉まる直前に唇を噛みしめていたかもしれない。
待って、ちょっと待って、とかろうじて聞こえてきたハルからは自分で開けろという突っ込みすらなくてこれには正直たすかった。耳をそば立てればうめき声の合間に、はー待って、と何かと葛藤している。
待ってていいのかな…。追い返されたわけではなく…。

胸元で持ったままの財布のがま口を見つめて、もはや手を離すつもりはさらさらなかった。
ややあって、再び開いたドアからハンドサインで入れと促される。

「はじめてのおつかい……」

ハルはしかめた顔を覆った手の隙間から僕を見るなりそう呟いた。あれ、僕おつかい頼まれてたっけ。



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