急がば回れとも言いますし


震える指先でショーケースの中を示す。その人差し指の先に、様々な形に彩られて並んでいるうちのどれがあったかなんてのは、この場に居るだけで気力を使い果たしそうな僕には分かろうはずもない。
商品の確認をとる店員に適当に頷き、がま口の財布を開いた。

僕がなにを選んだのか、この際さほど重要ではないのだ。何より重きを置かれるべきは、僕がハルのためにケーキを買った、という事実なのだから。

はー、きっつ。いや、いや無理。もう無理、無理だってはやく帰して!

反応の遅い自動ドアから飛び出して電柱の陰に体を詰めこみ、今にも爆発しそうな心臓を宥めた。そして服の裾をぎゅっと掴んだ拍子にポケットの中でチャリ…と鳴った硬い存在は容赦なく僕に暗澹をもたらす。


その存在がポケットにあると気づいたとき、兄弟の目も憚らず僕は膝からくずおれた。居間で寛いでいた五人の驚愕した顔は笑ってやっても良かったけれど、大の男が倒れればそれなりに家が揺れたし、立ち上がろうにも生まれたての子鹿ほどもままならなかったのだ。腰が、ぬけてしまっていて。

壁際すら辿りつけず藻掻くことを諦め、なよついた格好で目下に晒される。

「い、一松?」
「いや、なんでも…」
「声すげー震えてるけど」

だって、完全に忘れていたのだ。軽やかに擦れる音を発するそれは、なんてことでしょうハルから預かっていた合鍵だったのです。
ていうかほかの奴らのと一緒くたに洗濯されてパンパン伸ばされて干されてさらには取り込まれ僕のもとに戻ってくるまでよく落ちなかった!よくその死線をくぐり抜けてきたよ、本当に!ごめんなさい!

酔ったハルの介抱に追われていたからって、返し忘れとかクズか?クズなのか僕は?その通りです。
人の合鍵かってに持ち帰って…キ、キモすぎだろ、ハルはちょっと貸してあげようくらいの軽い気持ちだったのに調子に乗って私物化かよマジでない。マジでないし、もしこれを兄弟の前でポロリしていたらと思うと括約筋が活躍しそう…あ、だめ。混乱してる俺。

「あのさ、例えば。例えばの話なんだけど」
「なーに、一松兄さん!」
「例えばであって決して俺のことじゃないんだけど」
「いやいいから、はやく言ってよ」
「か、か、借りパク?してたことに気付いたとして、その罪はどう購われるべきだと思う」
「えっ、宗教?」
「謝ればいいんじゃないか、普通に」
「それができないから相談してるんでしょ一松兄さんは」
「あ、そうか」
「だから違えって。い言ってんでしょ…!た、例えばだから」

指いじりが止まらずに加速して唇が戦慄く。
ぱたむ。と求人情報誌を閉じたチョロ松が、これ見よがしな溜め息をついて首を振った。
なんだなんだ。名案をくれるならこの際、多少ライジングしてても感謝したおすぞ。

「みんなもうちょっと真剣に考えてやったら?要するにこれは信用問題なんだよ、分かる?」
「ひゅっ………」
「あっこのバカチョロ!」
「大丈夫だぁ一松、ハルちゃんは怒ってなんかないさ、な?」

だだだ誰がハルの鍵を借りパクしたって!?言ってねぇだろそんなこと、いや違わなくはないけど、違うから!
でももうそんなことを言い返す気概なんて残ってるわけがなく。

「き、嫌われる…」
「あ、あー!一松兄さんのガラスのハートが…!」


嫌な記憶だ…忘れたい。
猫が水を払うように激しく身震いして回想を掻き消し、ついでに毛繕いもして大きく息をついて額を拭う。

みんなに泣きついた結果、なんとか可愛らしい包装をされた手土産を手に入れるには至ったけれど、もう心が折れそう。

いつかのように玄関前で膝を抱えハルを待ち、少し考えてからサンダルを脱ぎ膝を揃えて正座した。このほうが誠意が感じられるよね、うん。
それからハルに連絡…は、できてない。いや出来なくない?きっと多分、待ってる、なんて送ったらハルは僕を優先してくれるんじゃないかなって希望的観測をしちゃったりしてるんだけど、それくらいハルに大事に…ふひっ、してもらってるのは分かってるつもりだから。
だからこそだめだろ。

大事なのは誠意。だからまたこの合鍵を使うとかありえないし、べつに、すでにドアの鍵が取り替えられていたら立ち直れないとか、邪推が頭を占めてるとかじゃなくて純粋に?そう純粋に。ここで待ってたほうが僕が反省してることが伝わるかなって。だから、大事なのは誠意!

そんな僕を見て、鉄骨むき出しの階段から顔を出したハルは目をむいた。ついさっき向けられてきたばかりのびっくり顔は既視感がすごい。

「びっ……くりした。松、スマホ忘れたの?危うく通報するとこよ」

ヒールの鋭い音がまるで僕を咎めているようだ。

ぎゅう、と肩に力を入れて背筋を伸ばし示した誠意は、どうやらひと匙分でも伝わっていないらしい。おそらくきっと言外に漢気のある気遣いを含ませたハルの笑顔に、より身につまされてやらかしてしまった自分を張り倒したかった。

懐の深さに平伏して這いつくばった目先にあったハルのつま先を、今なら舐めてもいい気がしている。

「おかえりハル…その、それで、」

額を擦り付けたまま両手を頭上に掲げた。大事に胸に抱いていた僕の誠意のひとつが可愛らしい装いで献上される。

「どうぞ、お納めください」
「…なんでもない日おめでとう?」
「な、んでもなくはない、んだけど」

た、確かに記憶から消し去りたいハルと出会った日でも、初めて部屋にお邪魔した日でも、連絡先を交換した日でもないし、初めて手を繋いだ日でもないけど!

「私、なんか忘れてんのかな。これ松が買ってくれたの?」
「別にめでたくもないけど、俺が買ったし、口に合わなかったら死んでお詫びしますんで」
「じゃあ味オンチになるしかないなあ。松が私のために選んでくれたんでしょ、そりゃあ美味しいって」

ごめんなさい、中身は僕もわかりません。またひとつ懺悔の種が増えてしまったけど、包みを受け取るハルの優しい手の感触に早くも胸がいっぱいになって込み上げるものに唇を噛みしめた。

包装の隙間から合鍵を滑り込ませてある。
それにハルが気づいてからが僕の誠意の見せどころ。近所の人目だって、友達に見張りを頼んだから抜かりはない。
大変申し訳ございませんでした。土下座に次ぐ土下座で、腰は低く。言い訳などは不誠実そのものだ。申し開きもございません。それから次に繋げるための改善点を。今後、このようなことが二度と起きないよう、注意を怠りません。

つらつらとライジング松の受け売りを何度も舌で転がしていると、袋の中を覗いたハルが顔を綻ばせた。
ようやく日の目を見たそれは、ハルの言によればフルーツタルト。なるほど、闇雲に人差し指を突きだしたわりに悪くなかったんじゃないの。

まだ謝罪の謝の字もおわっていないのに胸のつかえを小さくさせる愚鈍な僕には、妥当な戒めだったと思う。袋の底に不自然な重さを残したそれに気づいたハルが、感情を押し殺した平坦な声色で。

「え……ショック」

その瞬間、つい今しがたまで羅列されていた小難しいことのいっさいが吹き飛んだ。

「わ…わざとじゃない」

頭の中が真っ白になって、口から飛び出したのは小手先にしても粗末な言い訳。

「そんなつもりじゃなくて、ほんと…」
「どんなつもりでも、鍵がここにあるのは変わらないでしょ」
「ごめ、なさ…」

はぐ、と当てつけのように勢いをつけた咀嚼音とタルトのものだろうカスが降ってくる。
こんな状況でわざわざ食べなくてもいいだろうに、だけどハルとしてもそうやって何かにぶつけないとやり過ごせないくらい憤りを感じているなら、それはぜんぶ僕のせいだ。

きっと、鍵の所在がカラーボックスにないなんて思いもしなかったに違いない。
落胆を向けられることにはとうに諦めすらあったのに、その中の恐怖を思い出した。なんだかんだ、ハルなら許してくれるんじゃないかなって、どこかで楽観していたツケが回ってきたってこと。

僕への信頼とか期待は、このタルト生地みたいにボロボロに崩れてハルの手から散っていくんだと思うと、顔は上げられなかった。ハルは、どんな表情で僕を見限るの。
とても見ることのできない情けなさを、それが誠意だからと言い訳を重ねるクズ。

胃袋に収めてついた一息にすら鼓膜を鋭く突かれて縮み上がる僕を呼ぶ声があくまでも穏やかで、もうなんでもいいから僕のほうが叫び出したくなった。

「鍵、確かに返されたってことでいいのよね?」
「ハル…やだ…嫌わな…っ!」
「まさか突き返されるなんて。合鍵、喜んでくれたと思ってお揃いのキーカバーまで買ったのに…松のライン繊細すぎじゃない?」
「えっ」
「え、ちがうの?」

渾身の恥ずかしい主張に被せて知らされた事実に、その場はなんとも間抜けなかたちで収まることになる。
やだ…僕、黒歴史更新しすぎ…?

「だって私、あげるって言ったよね」
「いい言ってない!ぜったい言ってない!」

そのはず。そのはずだ。持っていけ、無くすなとは言われた気がするけれど、僕が貰っていいものだとはっきりとは教えてくれなかった。

「でもいいの、ひ、ひひ、ほんとに俺なんかに渡して。こ、後悔するかもよ…もっとさ、ほかに…そしたらどうすんの」

ハルがくれるって、そのつもりで貰っちゃったらぜったい、返したくなくなるし公園に埋めて隠して困らせちゃうかもしれないよ。

「だからいらないって?」
「いや、その…」
「松は、いらないのね?」
「あ、あ………ほしいです」

大事にするように、と添えられたひと言に、うん、する。と頷き返し、大分とおまわりして、だけれどあっさり下賜されることがもはや平常運転と化してはいまいかと一抹の不安が過ぎりようやく顔を上げたところで。

「ハルっ」
「うん」
「ハル…!」
「うん」
「あじっ…じびれだっ…」
「うん、そんな気はしてた」

そこまでを一連の流れとして、すっかり感覚のなくなった足を震わせる僕を引きずってまた部屋に上げてくれたハルが鍵に施してくれた装飾は、どういうわけなのかクマだった。のんきな面構えの、中におっさんが入っていそうな、ひとにリラックスを促してくるタイプの。

「かわいいネコのがあったから。スコ好きだもんね。茶トラが松で、私は白ね」
「驚愕しかない…」
「なにが。丸い顔、つぶらな瞳、きゅっとあざとい口に小さなお耳…え、スコティッシュで…ない?」
「それ以前に…」
「ネコだよ…にゃあ?」
「…クマだくま」

まずトラ柄が入ってないことに気付かない!?ねえ!?

スマホで検索したネコ画像と見比べながら頻りに首を傾げるハルに信じられない気持ちとともにうっかり萌えの一端を掴みそうになりつつ、別に、これがネコということにしてしまっても構わないかなあと掲げてみる。薄目で見ればいけなくも…まあハルが言うなら、なくもない。よね、うん。

なにより僕はまたひとつハルに近しくいられる術を手に入れられたのだから、これ以上贅沢なことは望めるわけないし。床下のお宝入れに空きスペースはあったかな、などと保管場所に思いを馳せるのだった。



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