二度とごめんです


「松、明日も来るよね?」

ピロリンと受信したメッセージを片手間に返信し終えたハルがこちらを向くので、僕は一も二もなく頷いた。

その日暮らしを体現しているニートの身としては翌日の予定なんて決まっているほうが稀で、つまりは柔軟な対応ができる。
それにハルの言い草がなんだか来てほしそうに聞こえるし、そしたら僕だって期待してみたりするわけで、もしかして一緒に出掛ける相手に僕を選んだのかなと思うと全くもって、やぶさかじゃない。たぶん、いま約束を取り付けてなくても来てるだろうけど。

「明日ね、わたし飲み入ったから。ついさっき」
「なに…え、駄目なの?」

来んなってことだったの?は?死ぬんですけど。
毎日のように入り浸って大学のスケジュールからハルの帰宅時間まで把握してる僕にあんな聞き方したら、そりゃお邪魔するに決まってるでしょ。
それを見越して断りを入れたんじゃないのさっきのメッセージで。なんでオーケーしてんだよおかげで僕の心が大変にもてあそばれてるんですけど!

無意味に天井を見上げながらハルがカラーボックスの奥の奥を漁り小袋を引きずり出す。入っていたのは、ハルの部屋の鍵と同じデザインのくすみのかけらも無い真新しいスペア。合鍵。へぇそう。

「いや来てよ。そんな遅くならないつもりだし、部屋あがって待ってて」
「ハルの″つもり″は信用できませんね」
「えへ。鍵開けれないくらいご機嫌になってたら助けてねってこと」
「…どうせまた数合わせだろ。やけに楽しそうだけど」
「普通に話のはずむ友達もいるもの。付き合いもあるしね」
「男いるってことにすれば?」

そうすれば、つまらない酒だって飲む必要なくなるし、そのぶん僕との時間に割けるわけだし。
きょとんとハルに見つめられておさまりが悪く、足の指をもじもじすり合わせる。

「迎えくらい、行きますけど」
「それでもいいけど…あんた彼氏役、全うできんの?」
「……………。ウンコしてくる」
「ほらぁ!大人しく持っていって」

目の前にかざされた合鍵を直視した瞬間、網膜が焼き切れた。
僕みたいな身分の人間が所持していい代物ではないー!
必死に目をそらしていたのにあっという間に水泡に帰した努力に世の無情さを重ねながら、腕を最大限に使って顔を覆った。これ以上リア充の輝きを浴びたら破裂する。

「松、ちゃんと見て。なくさないでよ」
「むむり…」
「鍵交換になったら松に支払ってもらうからね」
「肌身離しません…」

しばらく目なんて開けられなかった。


周囲の安全確認を怠らずに玄関扉の前で構えたこのパリピな鍵は新品故に強く光を弾いている。同じ新品なのに雲泥の差を感じる。ハルはもう飲んでる頃合いかな。

もういっかい右見て、左見て、右見て、鍵をさします。
童貞卒業おめでとー、 などとしょうもないことが思い浮かんで本当に死ねばいいのに。

「開いた」

分かりきったことを呟いてドアを開けると、早くも難関にぶち当たる。この鍵、どこに置けばいいんだろう。

靴箱などというものはないし、ドア内側に付いたポストではなんだか不安がある。使ったものは元の場所に…?
馬鹿なのカラーボックスだぞハルのアレコレが入ってるのにできないできるわけなーい。
といわけでそっとジャージのポケットにしまい込んだ。

「…ハルに直接返せばいいだろ、うん」

適当に寛いでいろと言われているのが手持ち無沙汰でやることもなく、ウロウロと部屋を何周か歩き回ってから僕用のマグカップでインスタントのココアでもつくって、時間つぶしのお供にすることにする。
クッションに囲まれて座ってみたはいいものの家主のいない部屋ではそわそわと落ち着かない。背後に広がる空間が心もとなさを助長して、ケツを擦ってじりじりと壁際まで移動した。隅に背中を預けると定位置からの眺めに安心する。

そこでくぁ、とあくびが出た。

はっと目が覚めたらあたりは真っ暗。とっくに日は暮れていて、スマホを確認すると電気をつけた眩しさで顰めた眉が更に深く皺をつくる。
もう真夜中なんですけど?ハルからひとつも連絡入ってないんですけど?

楽しく飲めてよかったと理解を示そうとする自分と、朝帰りなんぞしたらチェーンロックかけてやろうかという自分が僕の中でせめぎ合っている。いやどっちにしても待たせすぎなんだけど。
マジで朝帰りしたら僕はどんな顔して迎えればいいの?笑えばいいの?

壁際で膝を抱え直すと、情けなくもペコリと鳴った腹の虫の音が唐突なドアノブを回す乱暴な音に掻き消された。続けざまに「たのもー!」とハルの高らかな声が響き渡り、安堵もそこそこに頭を抱えたくなった。

「近所迷惑なるんだけどハル。おかえ……誰、あんた」
「ただいま戻りましたハルちゃんですー」

知ってるよんなことは!隣のパーリーピーポーは誰だって聞いてんの!

容赦なく叩きはじめたドアを開けてやれば、もっと頭を抱えたくなる事態が待っていた。
そこにいたのは首が据わっていないハルと、そのハルに寄り添って支えている優男。え、だれ本当に。

そこでじわりと背中に汗が滲んだ。
これ傍からみれば修羅場というやつではないだろうか。ドラマやマンガでしか見たことのないような展開に、まさが自分が身を置くことになるなんて。
ハルもなにお持ち帰りされて、もとい持ち帰ってんだよ。

気まずさに耐えかねて「どうも…」と挨拶じみたことを言ってしまうが、向こうも柔和な笑みを引き攣らせながら似たようなことを返してきて余計に気まずさが際立った。イキリ合いに発展しなかったのが不幸中の幸いと言えるか。

お兄さんですか、という典型的な問いに、頭に描いたイメージの中の当事者がどんどん僕に置き換わり脂汗が浮く。

「違いますけど…」

めげずに弟かとも問うてきたので溜め息をつくとそれ以降めっきり口数は減ってしまった。僕がハルより年下なんて心外だ。

本音を言えば心底そこの優男に消えて貰いたいんだけど。そいつはそいつで、きっと小汚い男が現れたとでも思ってるんだろう。

「松にもね、おみやげあんのよ」
「ちょ、静かにしてハル」

人の話し声は気配が静まった夜だと特にあたりに通るから。隣近所に丸聞こえとか想像しただけで意識を失いそうだから勘弁してよ。

どうせ理解なんてしてないくせにうんうんと頷いて、ビニール袋を携えたハルが今まで支えていた人物になんの名残もなく僕のもとに体重を預けてきて「手羽先だよ!」と誇らしげに見せてくるからその瞬間に全てを許してしまいそうになってぐっと押し込める。とりあえず優男への優越感は残った。

あくまで向こうも騒ぎ立てるつもりはないようだから、このまま話し合いで済ませられるならそれが一番なのだけれど。

「ねえ、どうすんのハル…帰ったほういいの、俺」

と、口では譲歩しつつも、ハルの腰に手を回して引き寄せる。もしかして本当にハルが気に入ってお持ち帰りしたなら一応、尊重して…あげたいし…形だけでも聞いておかないと。

「まつ、帰るの?泊まんないの?」
「だって…ほら」

視線をドアのほうに誘導させると、件の優男を認め盛大に顰められたハルの顔。

「なんこれぇ…?」
「こっ……」

ちょちょっと待って聞き間違えかな。これって言った?
仮にも、下心があったかもしれないけど介抱してここまで送り届けた相手のこと『これ』呼ばわりした?気の毒すぎでは?いちおう生き物だから。
いやまあ、僕にしてみれば願ったり叶ったりなんですけど。
泡を吹いて倒れそうな優男にかける言葉に困窮する。

「そういうことなんで。…ご愁傷様」

そろりとドアノブに手をかけ、そのとき片足を挟み込まれる…こともなく優男の目の前で虚しくドアが閉められる。
…とどめを刺してしまった気がする。なんかほんと、うちのハルがごめんね。


「まつ、こっわい顔してたよさっき」
「まじか、無意識だったわ」

なんせハルさんがパリピと対面させるもんですから。あれで強気なリア充アピールまでされてたら僕は獣的なバケモノに姿を変えていたかもしれないからね。

「…だっこ、する?」
「いえぁ」

夜中のアパートにあるまじき騒音を奏でる千鳥足を遮り、僕が事実上のハルの足となってベッドまで運んだ。けど、ゆっくり降ろそうとした腕に乳酸がたまりすぎていて、力尽きてハルごとスプリングに倒れ込んだからあまり意味はなかったかもしれない。ハルのこともちょっと潰した。

「もう寝たい……お風呂はいりたい」
「だめに決まってるよね溺れ死にたいの」
「じゃあ水ほしい」

そういえばココアを入れっぱなしだったことを思い出す。洗い物が増えるよりいいだろうと一気に胃に流し込んで、案の定たまりまくっていた沈殿物をゆすいだ。

「飲んだら寝てよ」
「うっっすいココアぁ…うぇぇ」
「大丈夫、ほぼほぼ水。俺も寝るから」
「てばさきは?おいしかった?」
「…明日の俺がおいしかったって言ってたよ」
「どーーいたまして」
「もっと詰めて…おら、猫くせーぞ」
「くっせ」
「ハルは酒くせぇよ」

ハルの下敷きになっていた掛け布団をひっぱり出して健気に寝床を整えるが、不快そうな呻きとともに慈悲もなく払いのけられる。

「あつぅい…」
「おい。せめてお腹にはかけて」
「げせぬ…」
「なにが」

終いには片足を乗せて抱きまくらにしてやってようやくハルの動きを封じた。何度かけ直しても剥ごうとするハルが悪い。
しばらく抵抗して蠢いていたけどさすがに眠気に負けてうとうとと下がる瞼を見届け、あくびをかみ殺した。溶けるくらい居眠りをしたばかりなのに横になれば自然と微睡みに落ちていく。

よっぽどさっきのあれで精神も体力も持って行かれたんだなとゴミのコミュ力を労りながら、いまこの場所にあの優男がいることにならなくて胸を撫で下ろした。いや普通に地獄でしょそれ。

僕のハルは友達との先約を無下にしたりしませんので。
ふひ。ハルなら僕の隣で寝てるよ。

「ハル、起きたら正座待機ね」
「げせぬぅ…」
「俺がね」



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