内弁慶がすぎます


塀の上を私たちと同じスピードで猫がパトロールをしている。もしくは隣の松が猫に合わせて歩いていて、その松に私が合わせている可能性もある。…後者だと思う。

「オスだねあいつ。この辺のボス志望かな」
「向上心があるオトコっていいよね」
「…聞かなかったことにしていい?」

私はそろそろこの直線ルートから外れていい?
松ほど猫の丸見えな可愛いお尻を追いかけることには情熱を燃やしていないのよ。さすがに隣町まで付いていって仲良くなれる機会を窺ったりはしないし、だからいつだって自由に好きなほうに向かっていいはずなのだ。
私としては、本当に偶然、彼のプリプリのお尻と進行方向が重なっただけなもので。

「松、私こっちにいくからね」

当社比でご機嫌な足取りの松に水を差すことに多少の罪悪感がありつつも、黙って消えるのはアフターケアに大変な労力がかかると目算されたのでほんの一言だけ。

それで綺麗に二手に別れる手はずだったのに、なんと言うことでしょう。数メートル先まで進んでいた松は小さく声が裏返り、隣にいたはずの私を見失って一周ターンを決めると一目散に引き返してきたのでした。
カサササと目にも止まらぬ回転数で地面を擦る足さばきがどう見てもゴキブおえっ…。

「ハル、どこ行くの」
「どこ…いや決めてなかったんだけど、とくには」
「とくには」

そんなに驚くことでもないでしょう。
松とだって、特に約束していたからああして一緒に歩いてたわけではないんだし。
丈夫そうな猫じゃらしを吟味する松を道端で見かけて声をかけたら、RPGで仲間になったキャラクターのごとく付いてきたのだ。さも当然という顔で。

もご…もご…と優柔不断な唇で空気を食んだ松がじゃあさ、と少々まごついて指先をいじりだす。私はというと、人様に見せられる顔面のレベルを保てているのか甚だ怪しい。願わくば、聖母の微笑みをたたえていられますように。

「子供、産んだから…、」
「それはおめでとう!…誰が?」
「俺が言ってるんだよ?猫に決まってんだろ」
「ああ、あのお腹大きかった子!わぁ良かったじゃん」
「へへ、そうそいつ。ハルが近寄っても逃げなかっただろ、だから見に…行かない?…かなって…」
「いや、うん……」

このとき二つ返事で頷いてあげられれば良かったんだけど。
ごめん、ごめんって松。表情を失わないで。応じられない一身上の都合があることを分かってほしい。
私が身を包んでいるのが無くしたとばかり思って数日間涙で枕を濡らしたお気に入りのお洒落着であって、クリーニング店に預けたままにしていたのを奇跡的に思い出し保管期間ギリギリの所で滑り込んで来たことを。ごめんなさいはきちんとしました。
それはそれは浮かれもするし、季節の移ろいでもうすぐこの服装がそぐわない気候になってしまう。何でもいいから今のうちにお出かけしておきたかった。
それがこの無目的な散歩に帰結するのだ。

小綺麗に包装されたビニールからシャバの空気にさらした初日で路地裏ノラ猫チャレンジは…私には…マジでごめんね松。

「私、お猫さま向きの服じゃなかったなって…はは」
「お、俺の…敷いていいから…」
「あ待って待てって、脱がないでちょっと、」
「別に俺のは汚れたって大差ないし、いいよ好きにして」
「あんたパーカーの下なにも着てないでしょって!」

ヘタしたら職質じゃ済まないわよそれいや気持ちはありがとうだけども!
肩を落として一回り縮んでしまった松が足もとを見つめて、もそっと服を着なおした。右手がプリントされた松マークのあたりをかき寄せて震えている。

「だって、ゴミにできることって、あとなに…」

あー。松…あーっ。

「ぁあー……した普通に行こうよ一緒に…ね?」

今のは私褒められてもいいと思う。空気を読んで自制出来ていたと思う。

ぷるぷると伸ばされた手は、指切りを所望しているのだろうか。不安を抱えやすい松の気がそれで休まるならお安いご用だと淀みなく差し出した小指はまさかのスルーを受け、その先は私の服の、裾…あ、だめです。

松それもNG!シワNGー!

「あ、やだやめて!」

咄嗟にとはいえ、松の手を払いのけたせいでせっかく戻りかけた血色がまた急降下していく。うーわやっちまった。

「あ、あ…」

松のガラスのハートに容赦なく亀裂の走る音が聞こえる。まだ言い訳が許されるなら、シワが形どられ伸びて不自然によれた服の前例が過ぎったからだと主張しておきたい。それがなければ受け入れていたかもしれない。指先でちょいと摘まむ程度ならあるいは。

どちらにしても、行き場もなく宙を彷徨う松の手が握るべきは布ではないのよ。それは伝えておかねばなるまいに。

「松、お手」
「え?え、あ…うん」

ほんの少し前に松を拒んだ私の手のひらに重ねられた、存外に素直なかさついた手。時間差で押し寄せたらしい困惑顔が私のコマンドめいたそれについ反応してしまったのだと物語っていて、次第に挙動不審になり汗まで浮いてきている。
だけど乗せられた手が引くことはなくて…い、犬ーー!圧倒的犬ーー!もっと猫の自覚をもつべきでは!?
人間だという突っ込みは頭の隅っこに寄せておくこと。

もっとも、私の意図が伝わったかということに関しては、全くの別問題なのだけれど。
服の裾は握りたがるくせに、いっかな握力の発揮されないそれはしおらしく、筋肉が不規則に短い痙攣を繰り返している。何を憂慮することがあるのか、足もとから視線を上げおずおずと…。

「ハルの手、腐り落ちたりしない?」

しねーーよ。
人との接触ごときで腐敗してたまるか。

もしかして、そこ?そこネックだったの?
どうして、こと屋外となるとこうなるのだろう。ちょっと語弊があるけれど、床を共にする仲であるのよ私たちは。どこにいたって変わらないでしょうが。
まだ見上げる高さのボサついた松の頭が私よりも小さくなる前に、かける言葉は慎重に選ばなければ。今度は裏目にでてくれるな。

「早すぎたら腐ってやがるかもしれないけどさ」

ニッと口角を上げた私に、松が何かを見出したように身を委ねようとしてくれているのが伝わる。俯いたせいでのぞいた意外と大きい黒目が左右に振れて落ち着きがない。

「早すぎることも、ないんじゃない?」

きゅっと握ってあげた指先から全身に身震いが広がって、ほわっと目尻が赤らんだ。
私はそっと自分の口を覆った。


ゆっくりと手を引く私に合わせてサンダルが地面を擦る。握り返す加減に戸惑っているのか、離れそうになっては力を込めたり急に緩めたりしながらすぐ後ろを引かれるままに歩いている。あと一歩、二歩分前に来ないかなあ。そしたら私、もっと気分よく歩けるんだけどなあ。
それを待っていたらきっと埒が明かないから仕方がない。私が松に並ぼうと速度を落としたら、少し詰まって不思議そうにしてからまたもとの位置におさまった。
違う、そうじゃない!

「松、歩きにくくない?それ。」
「え…いや、別に」
「私は歩きにくい」
「うっ、で…でも。できればこのままがいいんだけど」
「そんなに?」

続きを促すと、やわやわと触れていた手が意志をもって握られる。

「ハル決めてないんでしょ、行くとこ。これなら急に曲がってもついてけるから…」

はぁぁー…そう。そっかそっか、あーそういうこと。
つまり君はそういうやつだったんだな。しんどみ。

「…もう松の好きにして」
「いいの。歩きにくいんじゃないの」
「いいよ。実はたいしたことない」

目的のない散歩、松と一緒編は足中の筋肉を痙攣させることになったけれど、体力の消耗に反して満たされたものも多かった。明日は講義が終わったらジャージでも引っ張りだすか。



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