常識をはかりかねます

紫の色地に黒猫が楽しげな僕専用のマグカップで静かに波紋を描くホットミルクに息を吹きかけて、ずぞ、と啜る。まだ熱い。
冷めすぎないように細心の注意をはらい、また息を吹きかける。せっかくハルがいれてくれたものだ。膜が張ってしまったらいけないような気がして。
うちでは十四松と湯葉に見立ててすくって楽しむけどハルはそういうのどうなんだろう。嫌だったらどうしよう。

急ぎ足で飲みきったせいで舌をジンジンさせながら、マグカップを今度はシンクまで持って行く。途中、「あれ?いつもはこんなことしないのに」と違和感を覚えたけれど、水を出してスポンジまで持ってしまったのでそのまま洗うことにした。ハルがやってくれてたから、僕が流しを借りるのは初めてだな。

「松、置いててよかったのに。珍しい」
「あー、うん。ごめん」
「いやごめん、ありがとうなんだけど」

ひょこりと顔を覗かせてきたハルも、当然のこと不思議に思ったらしい。
すいませんね。クズが改心したなんてことはないんで、僕も自分の行いに疑問しかなかったよ。

時間をおいたらこびり付いてハルに手間がかかるだろうなって、はっきり思ったわけじゃないけど、なんとなくそんなイメージが頭に張り付いて黙って座っていられなくなったのだ。
なんだ、やたらハルのこと気にかけて。
いやいつもか?まあそうかもしれないけど、それとは性質の違うような…。

「私はおかわりしようかな」

そう言って冷蔵庫を開けたハルに反射的にキロリと監視の目を向けた自分に、まさかと思い当たったことがある。

ハルの行動を把握したがるこの感じ。
おそらく、兄弟であろうともっと気を使っていきましょうキャンペーンが尾を引いてるんだこれは。短期で終わったキャンペーンのはずなのに四六時中目を光らせてたから体に染みついてるってこと?こわすぎじゃない?

「松はいらない?」
「うん。俺はごちそうさま」

ハルはべつにあいつらとは違って見張る必要ないだろ。むしろ僕が言われる側だろクソニートなんだし。
だいたいハルは一人暮らしで、僕たちみたいに男六人が寄り集った部屋にいるわけじゃないんだからハルなりのルールがあって然るんだよ。


「あ、松。ティッシュとって」
「ん?」
「こぼしたの」
「…ん」
「んー」

ほら。ほらほらハルはこういうのちゃんと出来る子ですから。
目くじら立てなくていいんだから僕はキャンペーンの毒気が抜けるまで燃えないゴミになってればいいんですよ。
と、安心したのもつかの間。

「おい、ゴミ投げんなよノーコン。結局周りが汚れんだろうが、迷惑だろ」

強い語気が流暢に口から押し出されて、ゴミ箱から外れていった丸めたティッシュを追いかけて腰を上げたハルが瞬きをする。

「ご、ごめん松…次から気をつけるね」
「あ…ごご、ごめん」
「いや、ごめん」
「お、俺が…ごめん、ちが…」

ち、違うんだハル、僕はハルに言ったつもりじゃなくて…いや実際言ってるんだけども。
だからその、まるで見当違いな方向に飛んでいった白い影の放物線の軌道があまりにも長男みを帯びてたからで、キャンペーン後半はほぼ長男専属の指導員みたいになってたからで、ハルがちゃんと片付けることは分かってたしハルが信じられなかったわけじゃないから。


「松、なんかおかしくない?どしたの」

隣に座りなおしたハルの声色が揶揄しながらも気遣わしげなのがバツが悪い。僕の頭の中では絶賛、弁明祭りが開催中だ。

「虫の居所が悪いなら早めに申告してよ。爆発する前にね」
「い、やそうじゃないよ。キャンペーンの名残が抜けないだけ…」
「なにかあった?そんなの」
「親しき仲にも礼儀あり、的な」
「へえ。誰かと礼儀を重んじたりしたの」
「…家族的な」
「的なってなに」
「どうもこんにちはお世話になってます的な」
「それもう他人よね」


おもむろに立ち上がったハルがベランダに出て行く。開けたら閉めろと条件反射を起こしかけた口を根性で引き結んだ。冷たい風が頭を冷やすのにちょうど良いと思う間もなく、ハルは何か布を一枚持って戻ってきた。
洗濯物をとりこむような物音はしていたけど、それだけなの。ベランダは玄関の反対側に張り出しているから知る由はないのだけれど。

「じゃあその礼儀に合わせたら、こういう贈りものは迷惑になるかな」

その、ハルが後生大事そうに両手に包んでいる布を、はい、と渡されて目ん玉が飛び出した。

「ちょちょっと!なにこれ?!」
「…ぱんつ、だけど」

そうだパンツだ!ハル正解!まだ男用だから良かったけど、いや良かぁないけど!

フィット感抜群でストレッチ性のよい少し光沢のある、さらりとした手触り。両親より下賜されるセットのブリーフばかりの僕にはとんだ贅沢品である、日本では一般的にボクサーと呼ばれる類のパンツだ。断じて僕のものではない。

え、ハル…いつの間に男なんかできたの。そういうことだよね、これ。
それに干されてたってことは使用済みなのでは…?なんてもの握らせてくれてんの?!


「どう?」
「どうって…」

どこぞの男が穿いたかもしれないパンツを握りしめて思うことなんかマイナスのことしかないんだけど。
あえて形容すれば、暗めの濃い紫に猫の足跡が散りばめてある。あっそう。そうですか。

「…男に、あんまりウケはよくないんじゃない、こういう柄。……俺なら、」

俺なら、喜ぶかもしれないけど。ハルに貰ったものはなんでも嬉しいけど。

「え、うそ…ダメ?」
「迷惑ではないよ、たぶん」
「猫ならなんでもいけるだろうなって…私が浅はかだったかしら」
「あ、いや…世間一般で言えばってことで」
「は?その辺の男どもはどうでもいい。私は、松に聞いてるの」
「お、俺?」
「そ、おれ」
「俺は…いいと…思うけど…」
「なによもう、良かった。いっぱい使ってね、」
「いやいやいや待っておかしいでしょ!え、おかしくない?!」

まるで理解できないという顔で僕を見ているハルに重ねて頭のイカレタ所業だと主張する。
兄弟ですら自分のブリーフには名前を書いて管理しているというのに、将来的に僕とハルの関係を面白くないと思う可能性がある奴とパンツを共用しろっていうの!?無理じゃない?できんの、ねえ!?

「泊まったりするし、うちに一着あったら便利でしょ」
「俺が潔癖すぎんのかなあ!俺が気にしすぎなの!?ハルがどうしてもって言うなら人のパンツ穿いてやるよぉ!」

途端、ハルが笑いだし頭をかかえた腕の間から睨め付けた。

「…絶対おかしいのはハルだからね」
「なに言ってんのよ松。さすがに私も使ったりしないから」
「いやそこじゃねぇんだって、」
「松専用よ」
「…俺だけ?」

軽い調子で頷いているハルが憎たらしくなってくる。

「わ、分かりやすい嘘つくのやめたら。干してあったの知ってるし」
「新しいのは先に洗いたいのよ。この間一緒に買ったじゃない」
「え……うっ頭痛い」
「記憶から抹消されてる…」

それはきっと一生思い出さなくていい記憶だ。その分、手の中にあるこれをハルが僕のために買ってくれた事実を噛み締めるほうが時間を有意義に使える。

まあ、ハルが猫柄のなにがしかを贈る相手なんて僕くらいですよね。そう考えれば納得もいく。ハルには僕の上位互換になるような猫好きの男は彼氏にしないようにお願いしておかないと。

「礼儀ってすごく大切なことだけどさ、遠慮とは違うと思うの」
「うん」

現金にも愛着が湧きはじめたパンツをひろげてみて、これを着用するには女の子の家の風呂に入る過程があることを電撃で報せてきた脳に従い、静かにたたみ直してハルの手に乗せた。これもとんでもない絵面だけど未使用パンツだから許されたい。

「だから遠慮すんなよ、松」
「…うん。とりあえず仕舞っといてよ」
「お揃いの柄でね」
「ん?」
「私のも買ったの。みる?」
「いいいいいいい!遠慮じゃない!いい!」

いつ使うことになるか分からないけど、聖域に足を踏み入れる覚悟を培っておくから。僕が童貞だってちゃんと考慮して。それまではタンスの肥やしにでもなっていればいいよ。


しかしその時は、存外すぐに訪れることになる。

「やだもう急に土砂降りなんてふざけてるっ」
「天気に文句言っても仕方ないでしょ」
「濡れ鼠が余裕じゃない」
「ひひっ、風邪ひきそう」
「シャワー浴びておいでよ」
「いや、いやいやいやいいの俺なんか入れて」
「はやく」
「こ、心の準備が」
「はやくしないと私が風邪引くの」
「ありがたくいただきます」

湯気を立ち上らせてシャワーを止めると髪から体からハルの匂いが纏わりついて、僕自身がハルだったのかとか完全に脳細胞がやられてることばかり考えが巡る。
脱衣所から、置いておくねとハルの声が聞こえた。きっと着替えなんかを持ってきてくれたんだろうけど、その中にあるだろう例の足跡柄パンツをこれから僕が穿くのかと思うと落ち着かない感情どもがせめぎ合ってもう一度熱いシャワーを浴びた。

「……意外と、ふつう」

ゴミに柄ものとか、正直派手すぎて浮きまくると踏んでいたけれど。鏡に映ったゴミクズニートに、似合ってるとは言わないまでもそこそこ違和感はないんじゃないのこれ。いやハルのセンスを疑ったわけじゃないよ。

「まつー?」
「あ、うん。今いく」

…ハルもあの下着にするのかな。服の下で誰にも気付かれないハルとのお揃い。僕たちだけが知ってるって、ドメスティックパリピーらしくてぴったりじゃん。ひひっ。

もうちょっと、お揃いの柄を見納めてから。なんてパンツのまま暫く突っ立っていたら、ハルの厚意も虚しく僕は風邪をひいたのだった。もはや様式美とも言える流れのなか、待ちぼうけをくらっていたハルはなぜか何事もなくピンピンしていた。
うそでしょ。いやおかしいって。


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