ささやかな願望です


「ねえハル、いいでしょ…」
「や、待って…心の準備が…」
「この間も待たされた」
「…でも」
「十分慣らしてるよ…いれたい…」
「松…お願いだから」
「俺もう無理…ハル…」

腕の中のハルは決して僕を見ない。ハルにだけは嫌われたくない僕の小さな度胸を無情にも押し退けて、泣きそうに歪んだ顔を両手で覆った。そして叫んだ。

「うちペット禁止の賃貸なのよ…!」

これが本題だ。

「そこをなんとか」
「なんかい言わせるつもり?」
「爪研ぎさせない。トイレも外で済ませてくる。できるだけ鳴かない。あとなにが駄目?」

正直、このくらいなら松野家に遊びに来てる時とたいして変わらないから余裕でクリアできる。ほかにも条件があるなら僕がちゃんと言い聞かせるし、それを分かってくれる友達だからこうして頼み込んでいるのだ。僕のささやかな願い事がもしかしたら叶うかもしれないから。

「ペット禁止。それが真理よ」
「…どうしても?」
「どうしても」

口をへの字に結んでうちの三男みたいに理屈を持ち出すときのハルは少し面倒くさいけれど、ライジングしてない真っ当な意見だからぐうの音も出ない。

「壁薄いんだから」
「静かにできる」
「退居なんてことにはなりたくないわ」
「バレなかったらいいんでしょ…」
「松と会えなくなるかもって言ってんの」
「わがまま言ってごめんなさい」

しまいには駄々をこねてやるつもりだったけど、恐ろしいことをチラつかせてくるから、すかさず土下座して謝った。ハルはこうやって僕を脅してくるからずるい。いやハルにとってはなんてことない一言なのかもしれないけど、それ僕を殺しにかかってるから。オーバーキルだから。
ほらこれで分かっただろ、こんなゴミにはすぎた願いだったってことですよ。女の子の部屋で猫と過ごすなんて、クズには勿体なさすぎて縁を切られなかっただけ良しとしないといけないんだ。別に外でだって、ハルと友達を愛でることはできるし、そろそろ撫でれそうだし。
立ち直るまでに時間を要した僕を見かねて、ハルが優しく肩を叩く。

「私も仲良くしたいよ、青メガネの君と」
「え、誰」
「呼び名ないでしょ友達に」
「ネーミングセンスやばくない?」
「まさか」
「…いちおう、あるから名前」
「なによ。はやく教えてよ、そういうのは」
「……エスパーニャンコ」

命名はおそ松兄さんだけどもちろん言うつもりは微塵もない。再び両手で顔を覆ったハルが、僕の変わりに床に這いつくばって歯を食いしばる。ねえハル、今のどこで?

「……お前たちの入室を許可するぅ」
「えいいの…ほんとに?」

うわマジか。もう絶対に駄目なの覚悟してたのに、急に受け入れられると僕のほうがちょっと待って状態なんだけど。いっかい整理させて。僕は、友達を、ハルの部屋に、連れてきていい。
うわマジか。

「にぼ…にぼし、美味いの持ってくるから」

勇んで前のめりになった僕は、友達を連れてくるときは必ず一報入れること、と新たに決まりを設けたハルに首振り人形よりも激しく首を縦に振った。


その日から僕は皆がいる居間の隅で膝を抱えている時も、寝る前に発展するプロレスに参加してるときもそわそわし通しで落ち着かない。友達には会うたびに、にぼしの好みを聞いてこの間ついに溜め息をつかれた。あれはちょっとショックだった。でも友達のコンディションは万全で挑みたいし…いや果たし合いじゃねえんだから挑んでどうすんだ和平条約結びに行くんですよ。

膝の上の友達が顔を近づけてくる。しつこく聞いて悪かったね、ところで食いつき良かったにぼし買って来たんだけど、どう?
長男に見つかったらまた食い荒らされるからひた隠しにしていた未開封の袋を、ふがふが鼻を鳴らして囓っている。いいね。ノリノリだね。
これ、いけんじゃね?

「あのさ、いい場所…あるから」
「んな?」
「うん、だからそこまではお預け」

少々不服そうな声で鳴いてから大人しく抱っこの位置におさまり、見計らったように友達を連れて行くことに了解する返信がハルから届いた。重いケツを上げなければ。

向かう最中で、にぼしを求めて落ち着きがなくなった友達に袋をそっと咥えさせたらドヤ顔で自分のおやつだと離さなくなったので荷物持ちに任命して、いつものようにドアの前で開錠を待つ。

「は?」

顔を出したハルに開口一番、萎縮する一言をいただいた。え、ハルいいって言ったよね。おこなの?ゴミ野郎が調子乗りすぎた?

「クソ可愛いかよ」
「ビビらせないでくれる」
「あ、ごめんね青メガネの君」
「いや俺が」

危うく友達落とすとこだっただろうが。さっそく名前間違えてるし、やめてよ友達が困惑してるから。え、それぼくのことでしょうか…みたいな顔しちゃってるじゃん。
チョロ松兄さんの気持ちがちょっと分かったのがなんか悔しい。

初めての場所でも存外落ち着いている友達が袋を咥えたまま部屋の探索を始めたのを、ハルがどことなく期待を込めて見つめている。なんだかんだハルだって楽しみにしてたんじゃないの。でかい袋のせいで歩き辛そうなの可愛いって唸り声になるの、分かるよ。

「やっぱり最後は松のとこに行くんだ」
「まあ場数が違うんで」
「越されて泣かないようにね」
「にぼし」
「ありがとうございます」

食べたがってるのずっと待たせちゃったからね、早くあげないとね。まずは僕の手から、徐々にハルのほうに誘導しようと袋をあけたら、すっと底の浅い受け皿が添えられた。なにこの食器、見たことないけど。

「こぼれるでしょ。それ使って」
「あ、うん。でもこれハルのじゃ…」
「実は専用に買っちゃったの。可愛くない?」
「あ、そうなの」

なんだよ、随分と渋ったわりにこんな物まで用意してたの。
皿についた粕まで舐めとって、真っ直ぐ見上げておかわりを要求される。あげてみてと今度はハルに分けてやって、ハルに渡ったにぼしに友達は少し考える素振りを見せたけれど、美味しそうな匂いにつられてそろりと膝の上に足をかけた。

「うわ、うわ」
「動かないでハル」

僕が背中を撫でて一押ししたら、素直に膝にのぼり腰を据えてハルの手から食べ始める。ほらハル、今ならいけるんじゃない。僕の変わりにハルの手を乗せてやって、そしてついに、友達を撫でることに成功した。

「どう?」
「最高の気分」
「おめでとうハル」

おめでとう僕!
あれだ、たまにハルが尊いって言うの、こんな感じなのかな。
友達と友達が友達になる瞬間を目の当たりにしてるんだけど僕死ぬのでは。

どうしようハルと一緒に愛でれてるよねこれ。マジで叶っちゃったんだけどいいのこれ?ゴミクズニートでも望んでいいささやかなことかなと思ってたけどもぜんぜん身に余る出来事でハルに生かされてるのにハルに死の淵に立たされてるんですけど…!

「もふもふだねぇ青メガネの君」
「だから」
「エスパーニャンコって長くない?」
「変わらないよね」
「松は普段どう呼んでんの?」
「…ニャンコとか。……エスニャン?」
「……………ぐぅっ」

そもそも僕はあまりその呼称を使わないんだけど、繰り返すけど命名はおそ松兄さんだし、たしか皆はよくそう略していたはずだ。ふと黙ったハルを見やったら女の子がしてはいけない顔芸を披露していてさすがに心配になった。
友達がいて動けないから表情筋をフルに使ったということだろう。猫との友情を深めるのにはいい心がけだよハル。僕との友情は、それ深めてるって言っていいのかいつも疑問に思うけど僕に関心を持っているのが分かりやすいから嫌いじゃないよ。

「ハル、それ外ではやらないほうがいいよ」

ただ、いろいろと心配はする。

「そんなに?」
「そんなに」
「たぶん、松にしか見せないよ」
「ヒヒあざーす……ありがたくはないか」
「エスニャンももっと懐いてデレデレしてくれていいからね」
「俺の次にね」
「おいおい妬くなよ」
「はいはい流すよ」

時間にして半時を過ぎたくらいで、のらりくらりとハルの膝から抜け出した友達が出して欲しそうにドアの前に移動する。騒ぎ立てないことにハルは感心しきりだったけど、はじめから僕はそう言ってる。
練習がてら近くまで何度か連れて来てるから大丈夫だろう。ほんと感謝しかない。人目を気にしながら開けたドアから迷いもなく出て行く友達を見送りながら、ハルが残念そうに溜め息をついた。
そんなに名残惜しいの。

「あーあ、今日は使ってくれなかったかぁ」
「なにが。皿舐めまくってたけど…」

そこでようやく僕は気付いた。部屋にあがった時から違和感があるとは思っていたけど、増えているのだ、新しいクッションが。何か期待して友達を見てたけど、もしかしてこれ…?

「これも買ったの…。専用に?」
「ほら、自分の場所つくれたほうが落ち着くかなって」
「ふーん」
「ま、松も一緒にどうかなってさ、エスニャンと!」
「ふーん」
「拗ねんなよ」
「べつに」

別に僕にも、マグカップあるし。
とりあえずハルの部屋に常備しておくつもりだったにぼしは、パーカーのポケットにしっかりと突っ込んだ。




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