前進できてます


知らずに張っていた気を抜くようにふっと息を吐いて赤い暖簾を潜る。先客のいない長椅子に座ったら、おっと目を見開いた店主から景気のいい挨拶が飛んできて、目が泳ぎながらも片手を上げて応えておいた。


「どうだ、美味いか?」
「ん、だいこんがやばい」
「なになに?チビ太のおでんは宇宙一?よせやい照れるじゃねーか」
「そこまでは言ってないけど」
「にしても、珍しいな一松がひとりなんてのは」
「まあ、たまにはね」

もちろん友達の協力のもと、僕以外の客がいないことは事前にチェックしたよ。チビ太は喧しい兄弟が揃っていないときは商売柄、適度に話を振ってくれるし空気を読んで聞きに徹してもくれるけど、だからこそ他の客とはち合わせると色恋沙汰でもないのに奇妙な三角関係ができあがって、チビ太を通して話題を共有するのも居心地が悪いし、知り合いの前でその場限りであっても新しいコミュニケーションを築くとかキャラじゃないって笑われそうで嫌で、僕はおでんを口に詰めこんでそのトライアングルから抜けることしか考えられなくなる。

とか、根っから否定しておいてハルと飯を食うようになったきっかけはまさにその屋台コミュニケーションだったわけですけど。条件は違うけどね若干。

「チビ太おかわり。だいこんと牛スジと玉子、あと巾着も」
「はいよ」

取り皿に盛り付けるチビ太を横目に勧められた酒を断ってスマホを開いた。ここで酔っ払って潰れたら、わざわざ一人で来た意味がなくなるんだよ。
画面には開きっぱなしのトークアプリに、今日行くから、という僕からハル宛てのメッセージの下に猫が大きな丸をつくっているスタンプが送られている。

「そういやあの嬢ちゃんもだいこん美味い美味い言ってくれてよぉ」
「え!?」
「あれ以来見ねーけど、元気してんのか?」
「あ、ハル?あーうん」

び…っくりした。ハルのこと考えてたのバレたのかと思った。
ただの偶然だとしても実はサトラレでしたなんて落ちやめてよ、それこそ生きてられないから。死因、恥ずか死。
チビ太のばーかばーか。…あ、大丈夫そう。

そりゃそうか、ハルの六つ子遭遇事件は直近の出来事では相当インパクトあっただろうし、それは僕にとってもだけど、ハルが話題に上がるのなんて当たり前だ。むしろそれしかなくない?うん、ない。
ていうか僕の適当な言い付けを律義に守ってんの、ハルのほうこそクソ真面目だね。…そっか、ハル来てないんだ。

残りのおでんを猫舌を叱咤して火傷しながらかき込んで、ごちそうさまと箸を置く。

「げふっ」
「きったねぇな…」
「チビ太、持ち帰りでひとり分」
「…はいよ。嬢ちゃんにかい?」
「別に、夜食ほしいだけ。……だいこん多めでね」
「はいはい」
「……あ、」

袋に入れられたおでんを受け取りながら、もう一つ、僕がやるべき事を思い出した。忘れたまま持って行ったら、きっとハルがやんやと煩いに違いない。

「ツケの分、いくら足りなかった?」
「は?」

くしゃくしゃにシワのついた千円札を出してカウンターの上で伸ばす僕を見たチビ太が、何言ってんだコイツという顔をする。いやまあ、兄弟の総額低く見積もって百万のクズが言えた台詞じゃないだろうけど。

「俺じゃなくて。その、ハルのとき、足りなかったでしょ」
「あ、おお、そっちかよバーロー…。別にその土産の分も含めてお前らに比べりゃたいした額じゃねぇしよ、サービスしてやらぁ」
「でもハルはそういうの、気にするから」

袋の中を覗き込む。ハルにはお土産に持って行こうかって言いそびれたままなんだよなぁ。
ハルがここに通ってないことの裏がとれて、食べ飽きてましたなんて失敗を回避できてからやっと注文できたクズだけど、そこにチビ太の温情まで割り入ってくるのは気に入らない。

「…なにニヤニヤしてんの」
「いやぁ?やっぱ嬢ちゃんに持ってくんだなってよ」
「え、あ……謀ったなチビ太」
「おめーが勝手に喋ったんだろうが」
「……チッ」
「ほら、この千円で足りたからよ、一松の奢りってんなら文句ねぇだろ。おめーの分はツケにまわすからなバーロー」
「……うん」

ありがと、と口の中で転がしてから暖簾を潜りきる前に、どうにも踏ん切りがつかなくてチビ太を振り返った。昼間からずっと引け腰で遠回りしながらじりじりチビ太のとこまで来たけど、こんな調子こいたこと僕がしていいのか自信がない。手汗はんぱない。

「…ハル喜ぶかな」
「ったりめぇだろオイラのおでんだぞ。いいからさっさと行きやがれ」
「…うん、そうする」

だってハルは僕にドクペとかいろいろくれたし、それって僕も何かをあげていいってこと。と、友達ってそういうことしていいんでしょ?
猫だってネズミくれるし。いやあれはあんまり嬉しくないけど、あれ、てことはハルも僕なんかから物もらっても気持ち悪いし迷惑なんじゃないの死んで詫びるべきかないやでもハルが…。

お察しの通りでしょうけど、ずっとこの堂々巡りの状態で僕は手渡す時のセリフなんかもちっとも考え及ばないままハルの部屋でおでんを差し出しているのです。なんか気付いたらこうなってた。

「なにこれ」
「い、いらないなら別にいいけど…捨てるし」
「…あ、おでん?まだあったかい」
「い、いらないなら、」
「嘘でしょ松がこんないじらしいことしてくれるなんてありがたく頂戴するわ記念に写メらなきゃ」
「すいませんね、ゴミが気持ち悪い真似して」
「喜んでんの見て分かんない?鼻血でそう」
「やめて」

わざわざテーブルの僕の目の前の位置におでんを置いて膝を抱えている足の間に無理くり収まってくるのは、ハルの機嫌がいい証拠だからお腹に腕をまわして肩に顎を置く。

「こぼすから動かないでよ」
「へーい」

それから暫くハルが食べるところを眺めてテレビを聞き流していると、だいこんを口に含んだところで、おや?と眉を上げた。

「…これ、あの屋台の?」
「そうだけど、不味かったら突っ返してこようか」
「そんなことない。だいこんヤバイ。じゃなくて、私…とんでもなく迷惑かけたうえにお金…あれ?足りてた?足りてなくない?ねぇ松」


そら来た。

「大丈夫なんじゃない」
「そんな適当な、」
「俺が出しといたから」
「……お金」
「そう」
「松が?」
「俺が」
「…拝めばいいのかな」
「美味い飯でも奢ったらいいんじゃない」
「…そっか。うん、へへっ。ありがと」

そう言って、今度は心おきなくとばかりにおでんを噛みしめはじめたハルが、おもむろに僕にも餌付けしようとするから慌てて掴み返してハルに頬張らせる。もごもご咀嚼しながら抗議の視線が向けられる。

「俺はいいよ、口の中やけどしてるし。食べてきたから」
「…そのフライングはいらなかったわ松」

もう熱くないんだから、とふぅふぅ冷ます真似事をしてから無理やり口の中に押し込まれて思わず手で口元を覆った。確かに熱くない、し、やけどもたいして痛くはないけど。僕の猫耳が垂れた理由はほかにあるのだ。
おでんを噛みしめながら下唇を噛みしめたハルが本当のところ何を噛みしめているのかはあえて聞いてやらない。

「シラフではやらないってハルが言ったのに。…いいの?」
「意味のないルールっていつかは廃止されるものよ」
「ハルの匙加減でしょ」
「おでんだって、おかずがあった方がより美味しいしね」
「…知らない」

居酒屋で飲んでる時みたいに箸が僕とハルを往復していく。僕もとうとう自分から口を開いて餌付けを待つようになったら、当然あっというまに空になってハルが物足りなさそうに箸を舐めた。
ちらっと横目で見てきたハルが次に言いそうな言葉はなんとなく予想がつく。

「ねえ、松も一緒なら私も食べに行って良くないかな」

まあ、そうなりますよね。実際は治安もクソもなくて僕が兄弟に会わせたくないだけなんだけど。

「ハル、俺のこと何だと思ってんの」
「友達じゃないの?」

だからハルはまた…!心臓いてぇよ、逆に!逆に死ね!僕みたいな初心者あまやかしたら何回も言わせたくなるに決まってんだろ、ほんとやめたほうが良いよ。それに、僕が烏滸がましくも欲しがってるのはそう簡単に形容できる薄っぺらいものじゃない。


「もっとこう…ゴミ的な」
「根暗な童貞クズニート?」
「辛辣だね」
「求められたのに心外だわ」
「そのクズニートがおとなしくハルの盾になるわけないよね」
「最低な男も居たもんね」
「そう。だからハルは行けないの」

そうでなくても夜の屋台で女がひとり飲んだくれるのはどうかと思うよ僕は。出汁まできれいに飲み干して手を合わせたのに倣って、控えめにハルのお腹の前で僕も手を合わせた。何回か腹筋に変な力が入ってたけどハル大丈夫?


「松、またよろしく」
「…気が向いたらね」
「次はちゃんとふたり分でね」
「へーい」

ハルの許してくれる範囲が広がったんなら、僕のしたことは間違ってなかってこと。だよね。
どうやら僕の小さな頑張りは報われたらしい。


「店主さん、場所移さないのかな」
「…ああ、気合いと根性が違うから」

…チビ太への業は深まった気がするけれど。




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