こんな試練あるなんて聞いてない


ハルの隣を許されている間、一緒に親友を撫でられたらいいなくらいのささやかな憧れをひっそり抱けることに満足して、僕の立ち位置にもようやく整理がついた。矢先だったのに。


「あ、やっぱり。一松兄さんだ」

なんでトド松が目の前にいんの!?ハルと飯食いに来てたはずなんですけど!?
ビビりすぎてケツ10センチ浮いた。バッと周囲へ視線を走らせても、ハルが選んだちょっとお洒落な居酒屋の半個室の壁があるだけだ。え、ハルは!?
あ、ああそうだ、さっきちょっとお花摘んでくるとか気取って便所に行ったんだった。じゃあだからなんでトド松が目の前にいんの?
無駄にでかいため息をついてトド松がテーブルに突っ伏す。

「と、トド松……」
「兄さんの声がすると思って気が気じゃなかったよー。僕いま合コン中だから、くれぐれもじゃましないでよね?僕も、ハルちゃんにはちょっかい出さないから。はいこれでウィンウィンね」

これ、ハルちゃんのバッグでしょ?と壁際に置かれた肩掛けのバッグに目配せするトド松に、こっちもお前はお呼びじゃねぇよと悪態をつきながら冷や汗が噴き出してくる。
ここで鉢合わせるとか意味わかんないんだけどとりあえずハルは暫くふんばってろ一帯の花畑根こそぎ毟るまで帰ってくんな。
ていうか早く席に戻んないの?女の子たち待ってんじゃないの?ここに居座る意味ある?嫌がらせ?え、嫌がらせ?

トド松がずい、と手を突き出して何かを催促する。だから腰を据えんなって。

「……なに」
「一松兄さんスマホ貸ーして」
「おまえ持ってるでしょ」
「電池切れそうなんだもん。帰り遅くなりそうだから兄さんたちに連絡いれときたいんだけど」
「………いいけどべつに」

カバーもなにもつけずにぞんざいな扱いでポケットに突っ込んでいたわりにキズひとつ付いていないのは、使用する絶対数がカスみたいなものだからでしょうね。どうぞ笑ってください。
手渡してすぐフリック操作、だっけ?それをはじめた末弟の指さばきが見事すぎて、兄弟間にすら越えられない壁が見えて吐きそうになった。直視したくない。どうせ僕には必要のない技術だし。

「ところで、ハルちゃんどこいったの?まだ戻んない?」
「いたいけな花畑を殲滅しててほしいです」
「いや兄さんの物騒な希望は聞いてないんだけど」

知ってどうする。会わせる気ねーから。

お願い駄目ハルまだ帰ってこないで。

なんていうかさ、とトド松が呆れた声を上げるまで、僕はハルが戻って来ませんようにとコップを握りしめていた。

「そうだとは思ってたけど、まだハルちゃん登録されてないんだ」
「もうそれよくない?いつまでやんの」
「逆にどうやったらこんな拗れるのかほんと謎。一松兄さん重く考えすぎなんじゃない?」
「軽卒な行動はとりたくないですねぇ」
「うっわ、これが公衆の面前で脱糞したやつのセリフかよ」
「未遂でしたぁ」
「問題はそこじゃないんだけど、もう」

どさくさに紛れて、僕があとでハルに食わせてもらおうと残していたウズラの煮玉子をドライ末弟が平然とつまもうとしやがるから、威嚇して皿を引き寄せる。子供かよ!と顔を歪めて突っ込んでるけど、これ全部ハルの恩恵で賜ってるものだから。ハルの金で注文したもの僕以外が食べるとか許されないから。

「一松兄さんぜんぜん手ぇつけてないじゃん!いらないんじゃないの」
「つるつるして取るのめんどくさいからハルにやってもらう」
「バカップルかよ!」
「ハルはばかだけどカップルではない」
「クソめんどくせぇ!」

さすがに、あーんで食べさせてもらうとは言明できなかった。そんなもん事故でしかない。さすがに。酔っててもわかる。
口をすぼめて、あざとくむくれ顔をしていたトド松は、そこはさすが五人の兄にもまれてきた男。めげずに次の皿、次の皿と手を伸ばすもんだから僕も負けじと奪われる前に引ったくって、気付けば料理はぜんぶ僕サイドだ。
舌打ちが聞こえてきたけれど、べつに僕には関係ないことですし。

「なんだよもう、こないだの約束も反故にされるし。なに契約を白紙にするとか、なにキャラ!?」
「は?………あ、猫カフェの。いや根に持ちすぎでしょ。自業自得だし」
「あれはおそ松兄さんが嗅ぎ付けてきたの。僕発信じゃないもん」
「守りきんなきゃ意味ねぇんだよ」

あの長男に感付かれた時点で無理な話だろうけど。約束破ったのはトド松のほうだし、僕に非はないでしょ。

「ていうか、いつまでいんの」

いやマジで。ハルが便秘だとしてもそろそろやばいからマジで。
僕が便所に続く通路を気にしたのを目敏く察して、トド松がふっ、と息を吐く。

「もう、ほんとめんどくさい。そんなにハルちゃんとられたくないなら、闇キャラ拗らせないでよ」
「だからなにキャラって……お、おいトド松?」

トド松の手元がなにかを漁っている。なにかって、それ、ハルのバッグじゃねぇの!?
四、五回その狭い空間を往復してから見せつけるように抜き取ったのは薄い長方体の、スマートフォン。ハルの。
もうトド松ごと幻覚であって欲しい。


「今回だけは、僕が手伝ってあげるから」

おいドヤ顔してんじゃねぇぞてめぇ。
僕もハルの財布とか鍵とか勝手に使ったけど、あれはハルに無言の了解を得てるから。ていうか頼まれてる節あるから。
でもトド松、お前のは違う!パチンコ警察どころじゃ済まなくなるぞそれ!

左手に僕の、右手にハルのスマホを持って、器用に操作したと思ったら両手をぶんぶん、ふるふる、ふるふ…。

トド松がどんな悪行をしでかしているか理解した途端、頭よりも先に体が動いた。目一杯に振りかぶった腕が末弟に届かずにテーブルを叩いて皿が揺れる。
掘り炬燵式のテーブルの下にお行儀よく足を納めていたせいで、上手く立ち上がれない。膝を強かに打って、余計に皿を揺らして中身が溢れた。

「ちょっ、ちょ、手伝うって、トド松おまっ!」
「お礼は行けなかったケーキ屋の新作でいいよ」

はい、と笑顔で手渡された僕のスマホには、開いたままの無料通信アプリに登録されたばかりのハルの名前。震える手で受け取って唾を飲んだ。

こ、これがあればハルといつでも連絡がとれる…。

ぶんぶんと頭を振って蕩けた考えを振り払う。
あかんやつや。これあかんやつやで一松。
僕がスマホ持ってるの知ってて、ハルは何もアクションを起こさなかった。それはつまり、そういうことでしょ。僕、分かってますから。

混乱の真っ只中、通路の向こうから聞こえた松野の名を呼ぶ声に、末弟と揃って肩が跳ねた。
当然、呼ばれたのはトド松。痺れを切らして合コン仲間が探しに来てしまったらしい。
まあ、そうでしょう。僕のことを松野と親しげに呼ぶような関係の人間なんていないんだから、一緒になってビビる必要はなかった。なんだろう、無性にハルに松って呼んでほしくなった。

「あー。い、いま行くよ、あつしくん」

居場所が割れたくない必死さで妙に声色を変えて返事をしてから、ハルのスマホをバッグに戻してそそくさと席を立つ。

ようやく立ち去ってくれる。そう安堵しながらも、僕の側を横切るトド松の袖をがっちり掴んだ。


「…ちょっかい出さないって言わなかった?お前…」
「ハルちゃんには、っては言ったけどねぇー」
「きったねぇ…」
「誰もそれくらいで一生責任とれなんて言わないんだから、いい切っ掛けくらいに思いなよ」
「ハルの人生の汚点になる」
「うわおっも。そんなに嫌なら、消せば?」

そうするに決まってる。それが正解の返事だ、けど。

「…さっさと行って、どうぞ」
「引き止めたの一松兄さんだよね!?」


静かになった半個室で、中途半端に腰を上げたまま僕は悶えた。
消すなんて、できるわけねぇだろ…!!


「…松、それ全部ひとりで食べるの?」
「ひっ!」

顔を上げると、ハルが片寄りまくった皿と、僕の姿勢に不思議そうに首を傾げている。ニアピンにも程がある。あと一分でもずれていたらと思うと足元から鳥肌を起こす身震いが登っていった。

「食べれるならいいんだけど」
「……」

無言で座って、震えながらカタカタと皿を戻す。この時点で、スマホの罪悪感も舞い戻って混じっている。

「ハルのために、…守ってた」
「……ありがとう?」
「うん。…うん」

心臓が鳴りまくって爆発しそう。ハルが話してることもほとんど理解できないくらい耳元で動悸がやばい。バッグからスマホ覗いちゃってますけど、気付かないよね?気付かないで!

じっとパニックに耐えている僕を、餌付けを待っていると勘違いしたハルがウズラの煮玉子を箸に刺した。
うん、それ食べたかった。
歯の根が合わなくて味も分からなかったけど、ハルに食べさせてもらったものはなんか美味しかった。
今度はハルが、あ、と口を開く。僕に食わせろって?そうですか。マジで?まだ震えてんだけど。

「あっ」

察し。ころんと箸から逃げていった芋みたいな練り物がハルの足元に転げていく。目線の先にはバッグ。

自分で自分の首締めてる。物理的に。


「あれ?開いてる…」
「ひっ…!?」
「スマホ、ここ入れてたっけ?全っ然覚えてない」
「ひっ……ひんっ…!」

意外と酔ってんのかなと左右に首を捻りながら、ね、と僕に同意を求める。お願い僕を見ないで。耐えきれない…!

「てか松はなんで喘いでんの?」
「あひっ…っ…」

そこで感付いたように一瞬目を見開いてから、意地の悪い笑みを浮かべたハルに鼻をつままれた。

「松、開けたらちゃんと閉めること」

ハルの犬歯が覗いている。あ、あ、ハルにバレる。バッグ開けたの僕だと思ってる。スマホ弄ったって疑ってる。土下座しかない。その先はもう考えたくない。


「心配しなくたって、お財布にちゃんとお金はいってますー」

ちがうー!!そこじゃなーい!!でも良かったー!
結局、先伸ばしになっただけのような気がするけど、僕そういうのから目を逸らして背を向けてやり過ごすの得意だから。
大丈夫、ふ、震えてないよ。

ハルがバッグを閉めて、視界からスマホが見えなくなったらとりあえずほっとした。機嫌を損ねずに済んだから余計に。形だけの解決をみせたその場で、僕たちは餌付けを再開する。


完全に誤るタイミングを逃したんだと気付いたのは、ハルをタクシーに詰め込んだ後だった。手を振ってハルを見送って、その場にしゃがみ込んだ。

どうしよう。罵倒されたほうがいくらもマシだったかもしれない。




[ 21/78 ]