兄想いの弟は天使だった


「ふんぬ!ふんぬ!」

ソファの上で、きまぐれで遊びに来た猫をかまってやる。僕のほかには十四松がいるだけで、ほかの四人は各々どこかに行ったみたいだ。
ポケットからのぞいていた猫じゃらしを見つけて黒目を丸々と大きくした白い親友のためにそれを左右に上下に振ってあげたけど、どうにも気が散ってすぐに捕らえられてしまった。物足りなくて不満だと、親友が猫じゃらしの先を抱えてがじがじ噛んでいる。
ごめんって。でも、しょうがないっていうか。

「ふんぬ!ふんぬ!」

さっきからなぜか部屋の中で素振りをしている十四松に気をとられまくって、ほかのことに集中できる状態じゃないから。
バットを振る度にぶぉんぶぉん唸りをあげておきた風が僕の髪を掠めていく。こえーよ。

「ふんぬ!ふんぬ!」
「十四松、やめろ危ないから」
「あい!」

注意した瞬間、機敏な動きで素振りを切り上げて今度は僕の隣に寝転がり一緒に猫を撫ではじめた。ソファから盛大に足がはみ出してるけど、十四松にとっては大したことじゃないらしい。

「ネコかわいーっすね!」
「うん」
「ほら、ここがええのんか?ここがええのんか?身体は素直やでぇ」
「あ、だめですそんなにされたら私、ああお腹も見せちゃうう」
「これメスなの?」
「いやオス」

オカマ志望!?とテンション爆上げで猫を撫でくり回す十四松の頭もついでに撫でてやったら、満面の笑みを浮かべて嬉しげにアホ毛を揺らした。
やっぱこいつすごいよ、十四松ジャンルの頂点に君臨してるわ。


「一松兄さん、今日はでかけないの?」
「…ん、いい。今日は気分じゃないから」
「ネコは?」
「いま撫でてるでしょ」
「そっか!」
「うん」
「じゃあ野球する!?」
「…野球はまた今度ね」
「一松兄さん、ハルちゃんとケンカした?」
「………………し、て、ないけど…」

脈絡がなさすぎて返す言葉に詰まり空気を飲む。
なにを以てして今の流れにハルが登場したのか、それは十四松にしか分からない理屈があるのかもしれないけど、僕は付いていけてないよ十四松。
ただ、ハルという言葉に過剰に反応するくらいには、僕がハルのことを考えていたのは否めない。

んー、と唸りながら近寄ってきた十四松が、僕のパーカーをすんすん嗅ぎまわる。ちょ、やめてよ。たとえ兄弟でも臭いとか思われたら地味にショックだから。
すん、と鼻を鳴らして伸びきった袖で口元を覆い、猫目の眉間に力を入れる。

「なんか最近、兄さんからハルちゃんの匂いあんまりしないから」
「は!?お前そんなことまで分かんの。だ、だからハルとは別にそういう、」

ちょっと待てちょっと待て。てことは僕が今までハルと会った日に、さも猫巡りしてきました、みたいなすました顔で帰って来てても十四松にはバレてたってこと!?変な動悸してきた。誰か僕を殺せ。
十四松の無邪気な笑顔が可愛さ余って憎さなんとかになってきてる。
なにも考えずに焦点の合ってない目でぶっ飛んだことするくせに、時たまに人の核心を抉ってくるのは、それはもう十四松だからとしか説明のしようがないというか。そこが十四松が十四松たる所以というか。

「ケンカじゃないの?」
「け、喧嘩はしてない…」

そう、喧嘩はしていない。それは対等の者同士がぶつかって初めて成立するものだから。僕とハルの間には存在しないものだ。
僕がただ一方的に、ハルのやることなすことに大袈裟に浮いたり、沈んだりしてるだけ。まあ、今回は後者なわけだけど。
首を傾げる十四松の頭を無造作に撫でる。

「あのさ、十四松。…俺たち、喧嘩するほど仲良くもないから」
「仲いいとケンカするんすか!?ぼくと兄さんもしたほうがいい!?」
「い、いやそうじゃなくて、ほら。よく言うだろ、喧嘩するほど仲がいいって」
「せやったんかー」
「せやでせやで」

実際、そういう相手がいるとすれば、僕に挙げられるのはクズな兄弟くらいなもんだろう。同じことをハルとできるかって言ったら、そんなの嫌われる未来しか見えないから絶対に無理だ。
そこまで腹の底に悶々と靄を溜めてから、は、と自嘲が漏れる。
そもそも、ハルはなにも怒ってなんていないんだから、こうやって僕が悩みの種を増やすのもお門違いな話だった。

じっと見つめる十四松に、誤魔化すように撫でる手に力を込める。
綺麗に整った髪におそ松兄さんの寝癖みたいな豪快な癖をつくりながら唐突に、ぼくいーこと考えたっす!と開いた口をめいっぱい引き伸ばして喉ちんこを見せつけてきたからちょっとたじろいだ。

「あのね一松兄さん!」
「ん?」
「ハルちゃんとケンカしたら、もっと仲良くなれるよ!」
「…ん?う、うん…。…そうなの?」
「きっとそうだよ!」
「いや絶対違うからそれ」

慌てて首を横に振る。十四松の推しに圧倒されて危うく頷きそうになったんだけど。あっぶね。

「なんないの?仲良く?」
「なんないよ…!」

そこで不満そうな声出されてもダメだからね!
なんないものはなんないし、ヘタしたら拗れて険悪になるからね。やめてほしいんだけど胃が痛くなるから!

確かに出掛けない原因はハルにあるし、言ってしまえばハルに会うのが躊躇われるからなんだけど。

僕と一緒にいると、ハルまで僕みたいな社会のゴミだと思われる。僕みたいなクズとデートするようなハルも同じようなクズだって、周りから思われるってことでしょ。
ハルがそれに気付いてしまったら、いよいよ僕には絶望が待っている。そんなリスクを犯してまで関わろうなんて、誰だって思わないよ。

だから近頃は例の食事会を断っていたし、街中でハルを見かけても、もうすでに僕のことを遠ざけたがってるんじゃないかって邪推が邪推を呼んで、声なんかかけられたもんじゃないんですよ。僕、小心者なんで。
あんね、と十四松が何かを言いさして、遠慮がちに袖を口元にあてる。なんだよ、と先を促したら十四松には珍しく、言葉を選ぶ素振りを見せた。

「この間、ぼく、ハルちゃんと会ったよ」
「…は、なん、」
「一松兄さんハルちゃんのことぼくたちに話したがらないから、言ったら嫌な気持ちになるかなって黙ってたんだけど」
「…あ、ああそうですか。別に…」

と、いうことはあれですか。バレてた上に気を使われてたってこと?あの十四松に!?あの、十四松に!?
情けなさすぎて胃液込み上げてくるわあ。

「た、楽しくお喋りでもしてきたの」
「んーん!ハルちゃんめちゃくちゃ酔っててぼくのこと一松兄さんだと思ってたよ!」
「…あ。は、…そう」
「ハルちゃんうけんね!」
「…帰りは?お、送ったの…」
「タクシーよんだ!」
「あ、そう」

その情景は、容易に想像できる。できるけれど、それで僕は喜んでいいのか、酔い潰れたハルを心配するべきなのか板挟みで迷ったあげく、煮え切らない態度をとる自分にまたうんざりした。
ふつうならここでハルを気遣うことを言わなくちゃいけないのに、真っ先に浮かんだのが、酔ってて良かった、だなんて。ハルが十四松を気に入ってしまう機会が潰れて浮かれた僕は、口元が歪に引き上がるのを必死に堪えている。
自分のことばっかり考えて、さいてー。

でも、今度会ったときはハルにもっと摂生しろって言っておかないと。…今度っていつだよだから。

胃の底にずしりと重いものが沈んだ理由は、たぶん分かっている。
考えてみれば徒歩圏内に生きる僕たちの一人が頻繁に顔を合わせる人間と、ほかの兄弟が遭遇しないなんてことのほうがおかしいでしょ。
実際もう何度かあるわけだし。

膝を抱えてどんどん腕の中に顔が埋もれていく僕に、お腹いたいの?と十四松がバタバタ騒ぎ立てる。だから出掛けなかったんだ、よかった!とまた十四松の中だけで成立した方程式に疑問の顔を向けたら、ハルちゃんがね、と僕が聞き捨てていられない名前を持ち出した。

「一松兄さんが最近付き合い悪くてつまんないって」

もっと一緒に飲みたいのにって!なんかグチたまってんだって!とハルが言ったのだろう台詞を矢継ぎ早に連ねる途中で、僕の顔は完全に腕の肉にめり込んだ。

なんだよ、なんだよそれ。

僕、猫しか友達がいない根暗な社会不適合者だからこういう感情どう処理したらいいか分かんないんだけど!?
今の顔、ぜったい十四松に見られたくない。表情筋が言うこときいてくれないんだけど助けてハル。ハルのせいでこうなってるから。僕が情緒不安定なのだいたいハルのせいだから。

あは、と十四松の気違いじみた笑い声が聞こえる。


「だから、次はぼくからお誘いに行くねって言っといた!」
「おまっ、なに勝手に…!」
「ハルちゃん待ってるって!」
「……。…そんなこと言ってたの、ほんとに。ハルが」
「うん!『松はいつでも暇なんだからはやくしなさいよねー』って!」
「似てない」
「あちゃー!」

そう言えば、チビ太の所で愚痴は今度聞くって言った埋め合わせ、まだちゃんとできてないんだった。
こんなふうに言い訳をして自分を誤魔化さないと、行動に移す勇気なんて持てませんから。奮い立たせた小さなやる気がまた萎まないうちに、出来る限りの口実を絞り出しておこう。

ソファでおとなしく寝そべっていた猫が、また気まぐれで窓から帰っていく。


「…明日、晴れてたら、猫にエサやってくる」

雀が飛んでいく窓の外を見ながら呟いたごく小さな宣言に、僕のすぐ下の弟はぱっと表情を輝かせた。

あー。僕、十四松ボーイズに鞍替えするわ。




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