ご契約の件は白紙に戻させていただきます


いよいよ来てしまった、今日がエックスデーというやつ。

ガキじゃないし楽しみすぎて寝られないなんてことはなかったけど、松野家史上、記録的な早起きをした。クズもクズなりにやればできるもんだね。
一昨日に宣言した通りつなぎに袖を通して、首もとをきちんと締める。玄関土間に降りる流れでサンダルを突っ掛けようとして、背後に感じた二人分の無言の圧力に屈した僕は下駄箱から薄紫色の靴を引っ張り出した。

「…ちょっと出掛けてくる」
「はい、いってらっしゃい」
「気をつけてねー」

予想に反せず返ってきた二人分の声を受けて後ろ手に戸口を閉めた。


僕たちの行く猫カフェは、駅前のちょっと賑わいのあるビル街の一角に、数年前にできたところらしい。ビルの二階と三階が宛がわれていて、窓から猫たちが外を眺めているのが評判、らしい。ぜんぶハル情報だ。
目的のビルが目視できるところまで来ると、もはやどうやって歩くのかも忘却の彼方に飛んでいって、右足、左足と体全体で動かしている感覚を引きずってのろのろと進む。
動悸がドキドキってバカか、吐きそう。

約束して会うのってこんなに精神磨り減らすもんなの。リア充半端ねぇな。

俯いてちんたらしている僕の横を、ワンピースの見知らぬ女が軽やかに裾を揺らして追い抜いていく。この日のために誂えたような女らしいデザインを纏って、きっと特別な一日での特別な自分を思い描いてでもいるんだろう。
ハルは、と、これから会う身近な人物に意識が行くのは、至極道理なことだと言い訳してみる。ハルは、どんな格好で来るんだろうか。
颯爽と歩いていくワンピース姿に重ねて想像したハルは、うん、可愛いと思う。こんなことやってる僕は気持ち悪さ極めてるけど。

ただ、ハルが特別に自分を着飾る相手が僕だと仮想してみても、それは何か違うな、と曖昧な感情が湧いただけだった。

あんな格好、ハルがしてくるはずはないって分かってるのに、僕のほうがあいつらよりハルのことを分かってるはずなのに、自信が揺らいでいるのは初めて約束を交わしたという特別感が纏わりついているからだ。結局はハルに委ねるしかない事実がもどかしくて息苦しい。

ずるずると地面を擦る遅鈍な歩みが、とうとう目的の場所に辿り着いてしまう。細長く伸びたビルの入口でハルが待っている。それだけで、忘れかけていた呼吸が戻ってきた。
全部、僕の幻想なんかじゃなくて、ちゃんと現実だ。それがやっと実感できた。

「まつー!」
「聞こえてるよ、恥ずかしい」

僕を見つけたハルがガキみたいに両手を振り上げる。十四松かって。

真っ先に、大袈裟なほど手を振るハルの出で立ちに目が行った。明るい色合いのブラウスに、七分丈のパンツ。最近ほの暖かくなってきたから、春らしく合わせた、初めて見る服を着ていたけれど、いつもと変わらない系統の装いにひどく安堵した。同時に、兄弟の言葉に踊らされた自分を恥じた。
僕たちの歯車はカチリと噛み合っている。そう思うに余りある光景だった。

ああ、強いて言えば化粧してるなってのがいつもより分かる感じ。

「松が猫たちを手玉にとるの楽しみだわ」
「モテる男は辛いですわー」
「但し書き、猫に限る」
「ほっぺた引っ張ってあげようか」
「テラ遠慮」

ハルに率いられて向かった受け付けで尻ポケットから財布を出し、支払いを済ませようとするハルの横から僕の分を滑り込ませた。一拍置いて狐に摘ままれたような顔をしたハルが勢いよく首を向ける。そりゃそうだ、僕が財布を出すなんて、今に至るまで皆無だった。
初めて会ったコンビニでも小銭を直接ポケットから出した気がするし、ハルには初見も初見だよね。

「…なに」
「いや、…いいの?」
「…別に、今日は飲みに来たわけじゃないし、愚痴聞くわけでもないし」
「そっか、そうだね。…うん、割り勘にしよう」
「うん」
「松、おやつ券も出してだって」
「うん」

一度手放してハルの手によって舞い戻った紙切れは、これで本当に僕の手から離れていく。
何度も取り出して眺めてはしまってを繰り返す僕を鬱陶しがったトド松に、そんなに大事なら写メれば、と目から鱗のアドバイスを受けたけれど、結局、柄じゃない気恥ずかしさが勝って端末の記録には残さなかった。

少しだけ折り目のあとが付いた券が、日付と担当者の判子を押されて引き出しの中に消えていく。一昨日、慌ててポケットにしまったせいでついてしまった皺だ。
そのお陰で昨日は一日中闇に覆われていたけれど、チョロ松兄さんもトド松ももう深くは触れてこなかったから、それだけは良かった。

ささみの入ったタッパーを二人分受けとって二重に施された扉を潜ると、そこはもうなんて言うか、猫の楽園ですかここは。立派な飾り毛をたたえた純血種からノラ猫あがりらしい耳が欠けた子まで、実に様々な猫たちが思い思いに寛いでいる。天国ですね。
その天国には意外にもお一人様が多くいて、もしかして逆に僕たちがリア充みたいなんじゃないのいやあり得ないあり得ない。

「まつー、ほら早く猫にまみれて」
「ハル、猫カフェの楽しみかた間違ってない?」
「間違ってない間違ってない。はい座って」
「…はいはい」

百歩譲……らなくてもハルは十分リア充で通用するけれど。
意気揚々とドリンクバーから飲み物を調達してきたところとか、きっと欲目じゃなくても可愛らしく映るだろうし、ハルを見てると、いや女の子全般かもしれないけど、女の子らしい仕草とかいい匂いとか人生の中で出会ったことが無さすぎて同じ生き物なのか疑っちゃうことあるよね。童貞拗らせるって怖いね。


「にゃーん」
「…ん、ささみ食べる?」

こんな僕にも擦り寄って愛想振り撒いてくれる猫ってやっぱり最高。あー癒される。
撫でくり回していると一匹、また一匹と僕の周りに集まってあっという間にハーレムが出来上がる。どうしよう、超優越感。

「さすが松さま、美人を侍らせてる」
「ふん、良きに計らえ」
「ははっ。ではわたくしめもこの可愛こちゃんを堪能……あぁっ…!」

ハルの言う可愛こちゃんはスルリと手を掻い潜り僕に一周体を擦り付けて行った。でも猫を追いかけ回すのはご法度だから来てくるれるのを待つしかない。あ、ハル悔しそう。

「な、なんで」
「やっぱりさ、猫もこいつ俺たちより犬が好きだなって本能で感じてるんじゃない?」
「猫ちゃん天使だって言ったじゃん超絶かわいいよ、お猫さま…っ」
「ハル、何のためにささみ持ってんの?」
「貢ぎ物に頼らざるを得ないなんて…」
「タダでしょそれ……わっ」

いきなり肩に衝撃が来て、服に食い込む爪と頬にヒゲが当たる感触。
…飛び乗るなら事前に一言ほしいよ。ずいぶん積極的な子もいるんだね、可愛いね。
何度か踏ん張ってよじ登ってきたと思えば、僕の頭に顎を乗せて落ち着いてしまった。
え、そこで?可愛いけどそこで?
でもまあ、ハルが目を輝かせるから僕のぼさぼさ頭を提供するのもやぶさかではない。

「すごい…ほんとに猫使役してるみたい。爪痛くない?」
「あんまり痛くないけど、ちょっと重い」
「デレデレのくせによく言う」
「モテないのを僻んでるどこかのハルさんはどうぞ貢ぎ物を続けてください」
「もう無い」
「え、はやっ。必死すぎでしょ」
「猫たちが私から離れていく…」

薄々は気付いていたけれど、ハルって猫に嫌厭されるタイプだよね。犬派だからなのか、だから犬派なのか、そんなのはどうでもいいか。とにかく、仲良くなるのに時間がかかるタイプ。
手元に置いたささみ入りのタッパーを見やって、ずい、とハルのほうにスライドさせた。

「………あげる」
「え、松が優しい」
「哀愁漂いすぎてて見るに耐えないし、俺はモテてますから」
「優し、い…?」
「うん、慈悲に溢れてるよ。ヒヒッ」

それよりも肩のこいつの重量が地味にくる。肩こりそう。
こいつに倣って僕もテーブルに顎を乗せてみる。あ、だいぶマシかも。
しばらくはこうしていようと居住まいを正したら、ハルが僕にいつものもう見慣れた表情を向けてきた。お馴染みになってるのもどうかと思うけど。

「猫のオプションはずるいよね」
「…そうですか。じゃあ出血大サービスでどうぞ」

なんと言うか、ハルは僕が何かに顎を乗せる仕草が特にお気に召しているらしいから。

ハルがよく見せるこのなんとも言えない表情は、にやけそうになるのを気合いで押し止めているのだと、最近になって発見した。正直、男の僕が可愛いだの萌えだの言われても嬉しいとは微塵も思わないし、僕のどんな行動がハルの琴線に触れるのかもいまいち分からないけれど、ハルが喜んでいるならまあいいかと好きにさせているところはある。

きっとハルが僕にその表情を見せなくなったとき、僕は見捨てられて一人ぼっちに戻って、そして耐えられなくて死ぬんだ。


「…で、なにやってんの、ハル」
「頭上の猫にささみあげてんの」
「え、ちょ、やめて。絶対こぼすでしょそれ」
「ええまあ、既にいくつか」
「今すぐやめて」
「大丈夫、服の中には入ってないよ」
「どこに落ちても大丈夫じゃないからね」
「…ていうか松、これ」

猫に伸ばされていたハルの手がふいにつなぎの襟を摘まんで、質感を確かめるように撫でる。気管がきゅっと狭まって僕は固まった。猫が頭に乗っているからというのもあるけど、恐らくそれだけでなく動くに動けない。
ハルに首を差し出している、そんな感覚だ。

「今日珍しいの着てるね。つなぎ?なんか新鮮」
「え!?う…あ、まあ」

急につなぎのことに触れられて思ったような答えが出なかった。
へ、変!?おかしい!?ただ猫カフェに同行しただけで色気出しやがって気持ち悪い死ねって!?

違う、違うんだよハル僕はあくまでも普段通りの予定でいたのにあいつらが…!いやでもハルは兄弟のことほぼほぼ知らないから迂闊に言い訳なんてできないし、脂汗は滲んでくるし、どう言えばいいんだ、遊ぶ約束して友達気分を味わって舞い上がってイメチェンしましたって?引くわアホか、言えるか。

「うん、いいじゃん。似合うよ」
「は、………お、お世辞とかいりませんから…」
「じゃあ、お世辞じゃないから受け取るべきね」
「…っまたそういう………や、口達者だよね、ハルって」
「なんか馬鹿にされてんだけど」
「褒めてんの」

…良かった、引かれなかった。そうですよねハルから見たらこの程度お洒落のうちに入りませんよね。クズニートと現役女子大生のセンスの格差を舐めるなっての。
少なくとも、ハルは嫌がってないわけだし、ゴミにお似合いの格好だってハルのお墨付きを貰ったと思えば気は楽かも。

頭上でもぞりと動く気配がして、止まったささみの供給を求めた猫が腕伝いに降りた拍子にどこかに引っ掛かっていたささみの欠片が襟元から中へ転がりこんできた。

「う゛っ」

唾液でほんのり湿った冷たさに声が漏れる。

「ハル、入ってきたんだけど。ささみ」
「え、ごめん。とってあげようか?」
「えっ。い、いいよ…自分でやる」

照れんなよとにへら笑いのハルがムカついたのでぼそりと「ちじょ」と呟いてみたら叩かれた。しっかり聞こえてた。

胸元のファスナーを降ろしてシャツをはためかせる。ころん、と容易に出てきたひと欠片をさっきの猫に提供していると、なんとなく想像できてたけとハルから眼福うんぬんと曰く誉め言葉が飛んでくる。

「はいはい。どんだけ沸いてんのハルの頭は。俺が脱いだところで誰の福にもなんないんだけど」
「ただ脱ぐのとはね、ちょっと違うのよチラリズムのロマン?」
「ハル、黙って」
「腕捲りとかしたらもっと良い感じになると思うんだけど」
「ああ、絶っっ対にやんない」

だってそれ、まんまクソ松ファッションじゃん。
え、なに。ハル、クソ松みたいなやつがタイプなの?決めたわ。クソ松にだけはもう絶っっっ対に会わせない。はいこれ確定。

ああ勿体ない、というハルの抗議の声を無視して早々にファスナーをきっちり上までしめる。

「………締め付け感が良い的な?」
「あ、さすがハルさん分かりますぅ?」
「うん、それはあんまり分かりたくない」


その後はだらだらと猫たちを堪能して、何匹かとハルも触れ合えたあたりで終了の時間が迫っていることに気づく。僕は正直もっと居てもいい気分だったけど、ハルはいつもの何倍も猫と過ごせて十分満足そうだったから、ここらで出ることになった。

最後に窓辺がお気に入りらしい黒い毛並みの美人に挨拶でもしようかな。さっきから熱心に外を眺めているけど、なにか気になる物でも、

そこで僕の幸せな思考は途切れた。
黒猫が壁に張り付いた虫を凝視するごとくじっと見つめているのは、カラフルなお揃いパーカーのクソ兄弟ども。いや、あいつら隠れる気あんの?目立ちすぎなんだけど。


「どしたの松」

近寄ってくるハルに掌を向けて制して、考えるより先に、僕の耳元でスマホが呼び出し音を鳴らしていた。
トド松くん、話が違うんじゃあないかなあ?
おずおずと受話した末弟に舌打ちで返す。

「あー…」

いまハルと一緒にいるんだった。ハルを一瞥すると、いくらか目を丸くして僕を見つめている。

「お客様のご契約は白紙に戻させていただきます」

一方的に言い捨てて、慌てふためき申し開く末弟との通話をぶち切った。


「まつ…!?ごめん何から突っ込んでいいか分かんない。仕事!?仕事の電話…!?おめでとうする?あ、今からしに行く?就職祝い、」
「お、落ち着けハル。あんなの単なる言葉遊びだから、俺が就職とかあり得ないから」
「ぬか喜びかよ。有り得ろよ。ていうか、スマホ。いつの間に買ったの?」
「は?…ハルに会う前から持ってたよ、…いちおう」

持ってただけで、ほとんど使うことはなかったけど。
ハルの言いたいことは分かるよ。クズニートの分際でなに文明の利器所有してんのって、料金支払えてんのってことでしょ。
僕、おそ松兄さんよりはパチンコの勝率いいから。あとは母さんに恵んでもらったりね、してるよクズだから。

「え、そうなの?」
「え、うん、そうだけど」
「そんなんだ」
「うん」

だけれど、僕の予想に反してハルとの掛け合いはあっさりと終止符が打たれた。大抵は、僕のゴミっぷりに臆面もなく軽口が飛んでくるのに。
ハルらしくない、と思ったけれど、次の瞬間には今日の猫たちがいかに愛らしかったかを語り始めたから、もともと興味の薄い話題にはこんな感じだったかもしれないと自己完結に至った。

外には、とりあえず兄弟の姿は見えない。おそらくどこかには潜んでいるだろうと警戒しながら、ハルとはビルの入り口でそれぞれの帰路に着く。
現地解散とかあり得ないだのと帰ったらまたどやされそうだ。

「じゃ、またどっかで会おうね、松」
「うん、どっかでね」

いつもの言葉を交わすと、僕たちはこれで丁度いいのだと縋るように安心できる。
だけどその先を知って、この決まり文句に少しの物足りなさを感じてしまった僕はなんて欲深いんだろうか。




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