未開の先


目の前に、二枚の紙切れが差し出されている。

見覚えのある色合いのそれに、今度は意識して手を伸ばさなかった。
少し前に似たようなことがあったな、と追想する。

重なる過去と決定的に違うのは、目の前にいるのがハルだということ。いつまでも受け取らない僕に首を傾げて、痺れを切らしたハルが仕切り直すように紙切れを目線の高さまで持ち上げ、じゃーん、と言い直した。あざといよ。

「なにこれ。どうしたのハル」

全く同じ文句だったけれど、どうせハルは知り得ないことだからこの際気にする必要はないか。

「福引きでね、当たったんだ。すごくない?」

ハルからも似たような経緯が返ってきて、当たり前のように二枚綴りのそれに腹の底で醜い情動が蠢いた。
自ら手放したはずのものが、僕の意に反して再び手中に収まろうとしている。大当たりでしょ、と我褒めするハルを見て、眉間に皺が寄るのを止められなかった。

「いらない」
「ここ、可愛い猫いっぱいいるって評判だよ」
「別に、わざわざ行かなくても猫なんてその辺に溢れてるし」
「溢れ……まあ松にかかれば本気で沸いて出てくるけどさあ、せっかく当たったんだし」
「…ハルまで俺に死にに行けっていうの。ああ、ゴミには死に場所を選ぶ権利もありませんか」
「わけが分からないんだけど」

片足に体重をかけて口をへの字に歪めたハルは、手元の券をどうしたものかとヒラヒラ泳がせている。悩むことなんてない。使う予定のなくなった紙切れなんて捨ててしまえばいいのに、何をあたら物のように扱うことがあるのか。
福引きで珍しく相当賞を当てたものだから、勿体ない精神でも働いているのだろうか。くだらない。
さっきから視界の端でちらちらと揺れる目に煩い彩色のそれを、はし、と捕らえる。お、と声を上げたハルが目を丸くして、鳩が豆鉄砲くらったみたいだった。

「くれるんでしょ。ありがと」

我ながら有り難さの欠片もない棒読み具合だったけれど、こんな欲しくもないものに感情を込める気にもなれない。今しがた拒否したばかりの僕が今度は寄越せと言う、情緒の定まらなさにハルが困惑の表情を見せる。文面通りに受け取ってくれていいよ、そしたら万事解決するでしょ。

「貰ってあげるから」
それで、ぐしゃぐしゃに丸めて捨ててあげる。

ハルの手から無料券を抜き取ろうとして、やにわに力を込められた指に抵抗される。何度かお互いに引き合って、なんだよ、と慨嘆をぶつけようとしたところで券が取り上げられた。ハルが怒りを堪えるように笑っている。

「ふざけんなよ松、これは私が当てたの。誰が二枚ともあげんのよ」
「…見せびらかしたいだけなら他あたってくれる。根性悪いよ」
「あのさ、さすがに引くわ」
「いいよ、俺になんか構わないで。…もう行けば」
「一緒に行こうって誘ってるつもりだったんだけど、気付かないなんてことあるの」
「…………………、うそだ」
「うそって…」
「うそだ」
「私そんな薄情に見えんの」

もう完全に呆れた顔のハルをまともに見れない。
だって、ハルが僕を誘うはずがないじゃないか。なんとなく共にする飲み屋とはわけが違う、あんなリア充の溜まり場にわざわざ僕なんかを誘っても悪目立ちするだけだし、ハルはそもそも。

「ハル、犬派でしょ。行ったってつまんないんじゃないの」
「別にどっちかって言われたらそうなだけでさ」

ふいにハルがどこかへ視線をそらす。その先を僕も目で追って、そこに親友の姿を見つけた。そいつもハルに気付いてしっぽを膨らませて身を固くしているけど、前みたいに逃げることがなくなったのはかなりの進歩だと思う。
おもむろにパーカーのポケットをまさぐりだしたハルに思わず硬直しながら、なんとなく意を察して何も言わずにそれを許す。目当ての物、猫缶を取り出して慣れた手つきでパキャリと蓋を開け、盛ってやる。こんなことを気まぐれでたまにしているから、少しずつだけど慣れてきているのだ。
さして考える素振りも見せずに近寄ってきた親友がハルの側でもりもりと餌を食べはじめ、僕を振り返るハルがニッ、と口角を上げて笑った。

「猫が天使なことには変わりないじゃない?」

たったそれだけの理にかなわない一言で、僕の虚勢は論破されてしまう。


「…俺でいいの」
「松が一番喜んでくれると思ったから声かけたんだけど」

もう一度差し出されたおやつ無料券は文字面がよく見えるように向けられて、胸中ばかり口数の多い僕が言葉に出せるまでハルは待っていてくれる。
ハルと券とを何度も視線が往復して、僕の手を一瞥してから、またたっぷり時間がかかった。

「………………行く」

ハルが腕をほんの少し突き出して、譲渡の意思を示した。
受け取ったそれをまじまじと見つめたら、ただのゴミだった紙切れがとても価値のあるもののように思えてくる。折り曲げたくない。使って無くなってしまうのが、急に惜しいような気がしてきた。

「じゃ、いつにしようか」
「え、今からじゃないの」
「うん、今日は無理。うーん、土日で…あ、松は関係ないか」
「売られた喧嘩は買うけど」
「…なら聞くけど、あいてる日ある?」
「ぼく毎日が日曜日でぇす」
「クズは黙ってろよ。…じゃあ今度の木曜日。講義ないから。10時ね」

こっちの予定も聞かずに決を下し、さっそくスマホのカレンダーに書き込みはじめるハルを、僕はどこか他人事のように眺めていた。まあ、予定なんて入ってるはずないんでそこはいいんですけど。

木曜日、10時。なんども口の中で呟いて、その短すぎる単語を更に噛み砕き、ようやく理解できたときに心臓が握り潰されたのかと思うほど、 ぎゅっと胸が苦しくなった。

「それじゃ。松、忘れないでよ。あと遅れんなよ」
「……うん」

僕たちは、初めて次の約束を交わした。




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