クズ童貞は女々しくもある


「ねえ、ハルー」

あ、だめだ、ぜんぜん舌がまわってない。目蓋も重たくて見える世界がいつもの半分だ。
空きっ腹にビールなんか飲んだからなんだけど、別にもういいや、ととっくに考えるのを諦めた。
覚束無い箸でだし巻き玉子をつまんでハルの目の前につき出す。

「これ美味しいよ、はい、あーん」
「あー…、ん」

もごもご口を動かすハルが飲み込むまで待って、次の料理に箸を伸ばす。さっきからこれを繰り返している。煮っころがしがつるつるして、何回やっても挟めなくてイラッとしたからぶっ刺した。それも狙いが定まらなくて2、3回失敗した。

「はい、これも。あーん」
「あー…、ん。どうしたの松、やけに甲斐甲斐しいけど」
「ん、…なんだっけ」
「こーの酔っぱらい。この前と完全に逆ね」

だから私には何も言えない、とどこぞのクソ松みたいなポージングで呻いている。
はじめは、ハルの機嫌をとって何かをしてもらいたかった、ような気がする。いつの間にか、ひたすらハルを餌付けすることに目的が刷り変わっていてすっぽり頭から抜け落ちている。なんだっけ。
なんかすごく大事なことだった気もするけど、わざわざ思い出すのめんどくさいみたいな。頭ふわふわする、みたいな。自分でも意味わかんない。

「ハルー、俺なにしてほしいんだっけ…」
「聞かないで。ていうか私、これに見返り求められてたの」
「そうみたい」
「…できればこのままうやむやにしてね」

ハルが空笑いをして、頼んだ烏龍茶にストローをさす。ぐだぐだな僕を見かねて早々にソフトドリンクにシフトしたらしいけど、別に僕なんかに気ぃ使わないで好きなの飲めばいいのに。ハルの金なんだし。
もうお腹いっぱいだと言うハルの口を割って焼き鳥を押し込んだら、迷惑そうに烏龍茶で飲み下していた。
ストローを咥えたハルがこっちを見てくる。あれ、この感じ。

「あ」
「ん?」

僕もそれ、したい気がする。
と思うが早いか、ハルの口からストローを抜き取って代わりに僕が烏龍茶を飲み干す。この、吸い込んでる感じ。ずず、と氷に付いた水分も啜ってストローの飲み口をハルに返したら、いらねぇよと突っぱねられた。

「あ。あー、」
カップルストロー!したい!

突如駆け巡った欲望に、チビ美ちゃんにもうお金がないでしょ?と相手にしてもらえなくてやけ酒したんだと思い出した。僕もう金ないんだ。いつもたいして変わりない気もするけど。

「なんなの!自分の飲みなさいよ」
「ハルー。金かしてー」
「脈絡が迷子すぎる」
「とりあえず100万くらい」
「死ね」
「辛辣だね」

いいじゃん、バイトしてるでしょ。とぼやいたらテーブルの下で足を蹴り上げられた。いってぇ。この。

ハルの胸ぐらを掴んでしまったのは、ほとんど反射だった。長年、男兄弟にもまれて来たから、酔いどれは頭がまわらないから、とっさに言い訳しか思いつかない僕はとんだクズだ。このクズめ。これだからクズは。
この状況でいて、ハルは眉間に皺を寄せたまま、変わらず僕を睨んでいる。

「うっ…」

目が合わせられない。あっけなく怯んだ手がゆるゆると離れると同時に、力が抜けて椅子に座りこんだ。
よれた襟を片手間に直しながら、ハルが通りかかった店員を呼び止めて手短に烏龍茶、とだけ伝えた。それから頬杖をついて、大げさなため息。
ハル、怒ってる。あたりまえか。

「私さ、金が許す限りいくらでも奢るよ。でも絶っ対に貸さない」
「なんで」
「際限なくなるのが分かってるからよ馬鹿者」

首を竦めて重たい頭をそのまま落としたら、あごがテーブルに乗った。ハル金貸してくんないし、もうほんとやる気ない。

「だって俺クズだもん」

いいよねハルは。出会いなんて、大学じゃ腐るほど転がってるもんね。僕みたいにレンタルに縋らなくたってその気になれば彼氏の一人や二人、簡単につくれるんでしょうね。


「チビ美ちゃー…ん」
「は、まぁつくーん?まさか女に貢ぐ金私からせしめようとしてんの?彼女でーすなんて言わないわよね」

僕みたいなジト目で眉を吊り上げるこのハルだけ青春謳歌してるなんて、ずるいじゃないですか。僕にも味わわせろ。

「そんなかんじでーす」
「信じらんない。いろんなことが信じらんない」

嘘ですけど。見栄はりましたけど。
自分で言っておいて、とんでもない罪を犯した気分がした。

むっくりテーブルから起き上がって、両手でジョッキを持つ。お茶を濁そうとぐびりと飲んだけれど、ずっと凝視されててむずむずする。いや変態じゃなくて。なんかこう、ケツの居所が、
「ねえ松、かわいい?そのこ」

「あえ?」
変な声でた。

「だから、その彼女。かわいい?」

なに言ってんの。気になるの。ふわっふわの頭で思い浮かべたチビ美ちゃんはロリ顔ツインテールでそりゃもう。

「…かなり」
「へえ。気ぃ強いとか」
「気?…まあ、つよいほうだとは思うよ。でもそこがまたいいよねー」
「じゃ、じゃあ独占欲強かったり…」

そんなこと聞いて、ハルはどうしたいっていうの。できるものなら独占されたいよ。馬鹿か、現実見ろ。
店員がぶっきらぼうに烏龍茶を置いていくのを横目に見ながら、チビ美ちゃんを思い出す。

「…欲には、忠実なんじゃない。たぶん」
「たあーーーっ!!」

ばん。がったん。

え?
何が起こったのか分からないって、こういうことだ。
テーブルに手をついて立ち上がったハルを呆然と見上げる僕に、松、と冷たい声が降ってくる。

「どーしたの、ハル」
イスもなんか、豪快に倒れてるよ。
ハルの頬が引きつっている気がする。

「私、帰るわ」
「え?!なんで、え、」

いま?烏龍茶来たばっかだよなんでこのタイミングで。
怒ったの?なんで。さっきの方がぶち切れるようなこと言ったよ僕。

「ハル、」
「それからもう、こういうのはやめよう」
「え、」

心臓がぎゅっとなって、僕は何も言えなかった。

なんで。え、なんで。必死にハルを引き止めないとって思うのに、なんで、しか浮かんでこない。くそっ。
別に、それでいいんじゃないの。僕みたいなゴミとつるむより、そのほうがよっぽどハルのためだよ。いつもみたいにそうやって突き放せれば、楽に終われるのにそれもできない。
上手い言葉も浮かばないし独りになるのも嫌だ。

「…なんで」

喉から絞り出せたのは、そんな弱々しい一言だけだった。もう死にたい。

酒のせいで輪をかけて脆弱になった僕のメンタルが限界を迎えて鼻を啜りはじめた時、大きく息を吸い込んだハルが両手をテーブルに叩きつけた。空の皿が何枚か浮いた。

「もう…!もう刺されて入院なんてまっぴらゴメンなのよ…!!」
「はい…?」

目が点の僕をよそに、ハルがまた肺一杯に息を吸い込む。

「部の大会で、今日俺の彼女が見に来てんだって皆に言いふらしてたから気をきかせて、へぇどの子?って話に乗ってあげたのよ今までたいした会話もしたことないのに!皆にスルーされてたから気をきかせて!それだけなのに、曰く可愛くてちょっと気が強くて俺のこと好きすぎて独占欲やばいんだーへへっ、なそいつの彼女になんで腹刺されるいわれがあんの!メンヘラかよ!おかげで出席日数足りなくて一年ダブったのよもういや!あんなの絶対いや!」
「…………壮絶だね」
「そう!だから保身に走らせてもらうわ!」
「あ、あの…!」
「なに。もたもたしてられないのいつ目撃されるか…っ」

気まずい…!
もとはと言えば僕がどうしようもない見栄張ったからなんだけど、まさかだろ。まさかこんな展開、なると思わないだろ。ごめんハル。だから待って。

「レンタル、だから」

諭吉を一枚置いて去ろうとするハルの腕を慌てて掴んだ。

「レンタル彼女、だから、ハルが心配するようなことは絶対おきないから、だから、」

一回、座ってくんない?と尻すぼみになる僕をじっと見つめる。何か考える仕草のまま長い沈黙のあと、倒れた椅子をなおしてハルが静かに座った。まず謝れ僕。ハルが羨ましくてあんなこと言ったってちゃんと、

「ほんとのほんとね?」
「あ?ああ、うん。ほんと」
「そ。じゃ、あーん」

おもむろに口をあけたハルがだし巻き玉子を目で示す。促されるまま、箸で刺してそろそろと差し出すとかぶりついて次を催促される。どういうことだろうか。

「私も取り乱したし」
「…うん?」
「松もつまんないこと言った」
「うん……ごめ、」
「そんなの酒の席だから忘れよう」

ぽかんとアホ面を晒した僕に、ハルは騒いだら小腹すいた、とあっけらかんと笑った。

「そのほかは、松が甲斐甲斐しく私の口に食べ物を運ぶことで許してあげよう。それで元通り、どうよ」
「………はっ。名案だね」

ニッと口角をあげるハルにつられて笑って、餌付けを再開しながら、たまに僕もつまんではビールを消費する。今日はちゃんと飲みきろう。

ハルが口をあけて食べたいものを示す。
そういえば、こういうのなんて言うんだっけ。
だし巻き玉子が気に入ったらしいハルが満足気にほおばるから、僕も同じものを食べた。

…間接キス。

「たあーーーーっ!!」

唐突に思い出してしまった言葉のせいで今までの餌付けが急に生々しく巡っていく。ほんとなにやってんの僕この間から友達でもないのに、つーか友達でもやんねーよなこんなこと!
頭を抱えて茹で上がった顔を隠したら、ハルに笑いながらつつかれた。

「いきなり我にかえって照れるのやめてもらえる?こっちまで恥ずかしくなるよ」
「うっ…、だって」

こんな、酔ってたからって、初めてした。こんな、僕みたいな男に間接キスさせられてハルは嫌だったに違いない。だってこんな、

「まーつ、ほら」
「なん……むぐっ」
「こんなの、どうってことないのよ。ちゃんと最後まで付き合いなさい」

ハルの箸で突っ込まれた一口がやたらでかくてビールで一気に流し込んだ。くらりとアルコールがまわる。僕の口に突っ込んだ箸で、ハルが今度は煮っころがしを食べている。目が合った。

「あ、でもシラフではさすがにやめようね」
「あたりまえでしょ」

ハルってこういうところがずるいよね。いつだって僕の中のいろんなことを簡単に解決してって、僕なんかよりずっと漢らしいよ。ハルは女だけど。

両手で支えたグラスのジョッキの中で泡が消えるのをひたすら見つめる。ちらりと横目で窺ったハルが、こういう時によくするなんとも言えない顔で僕を見ていた。

「松、あんたほんとかわいい」
「…うれしくない」
「よくそれでケツ守ってこれたね」
「もう黙って」

だし巻き玉子を二つ、ハルの口の中に突っ込んだ。


後日、ハルにチビ美ちゃんとのランデブーで愛の言葉は囁いてきたか、とふざけたことを聞かれた。

「俺、猫科はだいたい友達でよかったよ」
とこたえておいた。ハルの間抜け面が笑えた。
沈んでいた気持ちが、少し浮いた。




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