たまには紳士ぶってみる


パーカーのポケットに、余ってしまった猫缶がひとつ入っている。
そろそろ日が暮れるけれど、今日はまだ馴染みの猫の1匹を見かけていないから、最近そいつが気に入っているらしい場所にも足を運んでみることにした。次に餌をやるときはどうせ買いたさないといけないし、今日の分は使いきったほうがめんどくさくなくていいよね。とか考えながら、目的の場所に目あての野良猫が居ないといいな、とも思う。
そこに居なければあとは心当たる場所もないから、野良猫なんてそんなもんだよねとほっとけるのに。

「………いた」

花壇を囲む低いレンガの上で寛いでいる。お前は好きなんだろうけど、僕は嫌いなんだよ。
ここは、ハルのアパートから最寄りの公園だ。蘇る消し去りたい記憶。

「あんまり来ないでほしいんだけど、ここ」
「んなー」

んなーじゃないの。
しゃがみこんで撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らしていい気なもんだ。こちとらフラッシュバックでいくらでも顔から火ぃ噴けるんですよ。
ほんと、ハルはただ座って、隠れてたわけでもないのに。人間て視界に入ってても意識の外にあるものは認識できないとか言うけど、大概だよね。

こんなナリの男がわざわざ女の子の目の前に出てきて猫にむかって独り言とか、絶対気持ち悪かったし、絶対怖かったに決まってる。通報されなかったのが不思議なくらいだ。

ぎゅむ、と猫が僕の腹を押してきて、ポケットの猫缶を布越しに爪でカツカツ引っ掻く。早く食わせろ、と催促だろうか。

「目ざといね、お前」

自然と口許が緩んだ。レンガの上にこんもりと盛ってやって、野良猫らしくがっつくのを暫く眺める。
ふいに、後ろからざり、と砂を踏む音がして、頬に当てられた熱感。

「うぉわっ!」
「以外と気付かないもんだね」
「…ハル」

尻尾を膨らませた猫が転がるように水飲み場の裏に逃げ隠れる。
カフェオレの缶を両手に、長男みたいな笑みを浮かべたハルを見上げて僕はじんとする頬に手をあてた。

てか熱っつ!熱っつ!
冷えた頬には熱さを通り越して痛みに近い感覚がする。

「ホットでしないの。火傷するでしょ」
「大げさな」
「…笑ってんじゃねーよ」
「猫ちゃん、逃げちゃったね。やっぱり松じゃないとダメなんだ」
「俺が叫んだからじゃないの」
「違う違う。私と目が合った瞬間ダッシュだったもん」

身を潜めてこちらを窺っているそいつは、僕たちが視線を向けると逃げる構えをとるけれどそれ以上遠くへは行かない。

「餌まだ残ってるし、少し離れてれば出てくるんじゃない」
「そうかな」
「…待ってみる?」
「うん」


あの時ハルが座っていたベンチに腰かけて、僕は項垂れた。何の羞恥プレイだよ。今度は暗がりの公園で猫を見つめる気持ち悪い様をハルに見られたわけだ。苦い思い出をまた苦く上塗りされた。
ん、と渡されたカフェオレを受け取って、口をつける。寒いね、と顔をしかめるハルに冬だからね、と返した。

「こんな時間まで講義?」
「ただのバイト帰りよ」
「新しいとこ見つかったの」
「そう」
「へぇ、おめでとー」

飲みかけの缶を持ち上げるとハルも缶を掲げて、どうも、とコツンと当てる。遅い乾杯の後に中身を飲み干して、一息ついたらようやく猫が抜き足差し足で出てくるところだった。
ハルを肘で小突いて、顎を向けて示す。わ、と色めいた声が上がった。
しきりにこっちを気にしながら餌を平らげるまで、ハルはじっと黙って見ている。

「抱いてようか、撫でれるかも」
「ん、いい。やめとく。2回も驚かせちゃったら可哀想だし、出てきてくれただけでなんか達成感?」
「達成感あるのはあいつのほうだと思うけどね」
「…それもそうね」

手持ち無沙汰に空の缶を弄んで、ハルが毛繕いを始めた猫を肴にカフェオレを飲み終えるのを待ちながら、ちらりと横目で見たりしてみる。

まさか僕みたいなクズが女子大生に声をかけられて、こんなふうに会うようになるなんて。
あ、違うか。ハルは思ったことが口に出るタイプだから、作りたくもないきっかけができちゃっただけか。
はっ、と自嘲のようなため息が出る。
でも今日みたいにわざわざ飲み物を差し入れるくらいにはハルはお人好しで、拒絶されないのをいいことにそんなハルに僕は甘えていて、この公園にいたのがハルだったから、今こうしていられるんだろうな。

だからと言って良い思い出だとは割り切れないけど。
沈黙ができると途端に忘れていた恥ずかしさが競り上がってきて膝に置いた腕に顔を埋めた。

「どしたの、松」

上から降ってくるハルの声に、首だけを振って応えた。
少しそっとしておいて下さい。

「わかってるかなー。松、あんたのそういうとこよ、ごちそうさま」

勝手に言ってて下さい。

ハルが伸びをして立ち上がる。

「ああ、…帰る?」
「うん、そろそろ」

いつの間にか星が出るくらいにとっぷりと暮れていて、カフェオレで暖まった体もまた冷えはじめてきた。
ハルから缶を奪って猫缶と一緒にその辺のゴミ箱に投げ入れる。

「…送る。もう暗いし」
「え、いいよ。すぐそこだもん」
「それで何かあったら寝覚め悪いでしょ」
「申し訳ないよ」
「ばーか、こういう時は素直に送られんの。気が変わらないうちに頷いといたら」

去り際に猫をひと撫でしてから公園の入り口でほら、と促す。ハルがじゃあお願いするね、と駆け寄ってきたのに僕は満足気に頷いて、アパートに足を向けた。
特に会話もなく、半歩後ろについてくるハルと僕の足元を見ながらもうすぐ着くかというころ、ふいに袖が引かれた。うわ、こんなことされたの初めてだ。

「そこの角、左ね」
「…知ってる」
「あ、そっか。この間送ってもらったんだ」
「すいませんね、こんなクズが家知ってるとか気持ち悪いですよね」
「そんなこと言ってないでしょ、卑屈になるなよ。あれは私が悪かったんだし」

別に、謝ってもらうほどのことでもない。あんなに酔うまで止めなかった僕も僕だし。
ただ、これで心置きなく飲めるわけだね、などとのたまったハルにこいつ大丈夫なのかと少し心配になったりもした。

いやだめでしょ、一応年頃の女の子なんだから。なんて説教じみたことを言いながら、ハルとの距離が縮まったようで悪い気はしなかった。

童貞ってチョロイわ。




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