国を揺るがしかねない騒動が起こった翌日。
弥生とラシェルは約束通り閲覧禁止の書籍が収められている書庫へ案内された。
昨日の今日ということもあって王城内はピリピリした空気が漂っていたが、とりあえず約束を果たしてもらえたことに弥生は少し安堵していた。客人という立場からすれば単に放っておかれているとも言える状況だが、部外者の自分達にはどうしようもないことだ。
学校の体育館ほどの広さの書庫には申し訳程度に机と椅子が置かれていて、二人はそこに居座った。
鍵は書庫まで案内役を務めたクライヴから手渡され、夜になったらまた迎えに来る彼に返却すればいいらしい。どうやらクライヴも忙しいようで、話をすると足早に去って行った。
さっそく気になる蔵書を遠慮なく引っこ抜いて卓上に小山を作り本を読むラシェルの前で、弥生は書庫にある本の中でも比較的分かりやすいものを少しずつ読み進めていく。選んだのは言うまでもなく保護者だ。
部屋の位置が悪いのか、昼間でも薄暗い書庫内に思わず弥生は目を擦る。
「……見え難い……」
呟いた途端、頭上にあるランプにポッと火が灯る。
二人は同時に顔を上げて目を見合わせた。他に誰もいないことを確認する。
「ありがとう。でも他に人がいる時は止めてね」
弥生はインク壷の傍にいた火蜥蜴にそっと声をかけた。火蜥蜴は返事代わりにぺろりと舌を覗かせて円らな瞳を二度ほど瞬きをした。
その背を指で優しく撫でていると、不意にラシェルが口を開く。
「対価ってそれじゃないかな」
「え?」
一体何のことか分からず弥生はきょとんとした。
ラシェルが「昨日言ってた魔法の対価」と続けたので意味を理解する。昨日の話なのに、色々あり過ぎて頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。
「君がそうやって話しかけたり触れたり、構うことが精霊にとっては対価なのかもしれない」
「それって対価になるんでしょうか?」
「さあ、精霊がそう思えばそうなんだろう。魔法で行っている魔力の譲渡自体、人間がそれを対価として決めて払っているだけで、実際に精霊へ何が欲しいのか尋ねた訳ではないからね」
聞く者によっては投げやりに感じる言い方だったが保護者は至極真面目な顔だった。
そうなのかと火蜥蜴を見ても、気持ち良さそうに目を閉じて弥生に撫でられているばかりで答えをくれそうにない。しばらく柔らかな鬣(たてがみ)を撫でて束の間の癒しを得てから、弥生は勉強に戻る。ラシェルもまた本へ視線を落とした。
閲覧禁止の書庫で弥生とラシェルはそんな風に時折会話を交わしながら三日ほど過ごした。
* * * * *
パシオンの王都ベネウォルスに到着して七日目、閲覧禁止の書庫に入り浸って四日目のことだった。
お手洗いに席を立った弥生が書庫へ戻ろうとしていたのだが、人の話し声がどこからともなく聞こえてくる。何となく聞き覚えのある声が響いてきたため耳を澄ませてみれば、目の前の曲がり角の向こうからであった。立ち聞きは無作法とは思いつつも、書庫はそちらの方向なのでここで立ち止まっているわけにもいかない。
「どうかフェル兄上と話し合いの場を設けて……」
「あいつがそんなものに応じるはずがないだろう。そんなことをしても時間の無駄だ」
「ですが既に兄上達の派閥は動き出しています。このまま兄弟で、兄上達の派閥同士で血で血を洗うなどということがあっては父上も悲しみましょう」
何やら雲行きの怪しい内容に弥生は一瞬足を止めようか迷った。明らかに無関係な者が聞いていい話題ではないだろう。
引き返して面倒だが遠回りする道もある。
しかし、足音と共に声が近くなる。
「継承権を放棄したお前には分かるまい」
突き放した冷たい口調の言葉の後に角から人影が曲がってこちらへ歩いて来る。
それはコーネリウスの兄王子、吊り目の方のエルヴィスだった。
危うくぶつかりそうになって弥生が壁際に避けるのと同時に、エルヴィスも反射的にといった様子で数歩下がる。弥生を認識しエルヴィスは不愉快そうに顔を顰めた。
「盗み聞きとは礼儀知らずだな。……さすが異界の娘といったところか」
後半の囁くような嫌味に弥生は眦を吊り上げた。
確かに聞いていた弥生に非はあるが、こんな誰が通るかも分からない廊下で重大な話をする放置も悪い。
たまたま通りかかっただけで、自分の生まれまで貶されるとは心外だった。
「私は書庫に戻ろうとしてただけで、貴方達の話なんかこれっぽっちも興味ありません。王子様だからって誰でも傅いて興味を持っていると思ったら大間違いです。自意識過剰も程々にしないと恥ずかしいですよ」
「何だと?」
弥生の言葉に今度はエルヴィスが怖い顔をする。
けれど威圧されると余計に反骨精神が湧き上がる性質の弥生はじろりと真っ向から睨み返した。
身長差のせいで凄みはなくとも、反発していることは一目で分かる行為である。
「第一、聞かれたくない話ならどこか別の部屋でしてください。こんな誰が通るかも分からない場所で話していた挙句に、偶然通りかかった相手を貶す方が礼儀がなっていないのでは?」
エルヴィスは口を閉じたまま眉間の皺を深め、フンと鼻を鳴らして去って行った。
その背が廊下の向こうへ消えて行くまで弥生は黙って見つめていた。
我に返ったコーネリウスが慌てて駆け寄り、弥生へ謝罪する。
「すみません」
その顔色はあまり思わしくない。
具合が悪いというよりも、精神的な疲労で疲れている様子だった。
「大丈夫ですか?」
思わず問いかけた弥生にコーネリウスが困ったような顔をした。
是とも否とも言えないのだろう。弥生はちょっと考えてからこの後の用事を問い、コーネリウスが特に予定はないと言ったのでその手を素早く掴んだ。驚く相手を余所に書庫へ向かって歩いて行く。後ろから名前を呼ばれたので弥生は自分の考えを口にする。
「何を抱えているかは知りませんが、誰かに話すだけでも落ち着きますし、口に出すことで整理して良い考えが浮かぶかもしれません。だから話が出来る場所へ行きましょう」
閲覧禁止の書庫は扉がとても分厚く頑丈だ。
あそこなら話し声も外には漏れないはずである。
「ですが……」
話していいものか、といった様子で言葉を濁すコーネリウスに弥生は一度振り返った。
「さっきので何となく話の内容は分かっています。それに昨日のこともありましたし、もう色々と気にされても今更ですよ」
何とも言えない渋い顔をされた。
話は変わるが、閲覧禁止の書庫の前にはコーネリウスの近衛兵がいる。
国王を亡き者にしようとした人間か誰なのか判明しない以上、それを防いだラシェルや弥生を排除しようとするかもしれないので初日の夜から付けられた護衛であった。魔法士二人は自害だったとは言え、彼らが王を殺そうとしたにしては理由がない。現状、黒幕とも言える者は分からないままなのだ。
そんなことに首を突っ込んだ以上、今更厄介事の一つや二つ増えても大差ないと弥生は思った。
それに兄弟王子同士、血で血を洗う争いなんて言えば浮かぶのは一つしかない。
書庫へ到着した弥生は扉の前にいた近衛に挨拶をし、若干動揺している様子の近衛を無視してコーネリウスを中へ引き入れた。
てっきり弥生一人だと思っていたラシェルは一緒にいる人物に首を傾げる。
「どうかしたの?」
保護者に問われて弥生は簡潔に答えた。
「迷える子羊を拾いました」
「うん、全然意味が分からない」
「何やら悩み事を抱えている風だったので、話して楽になることもあるだろうと思って連れて来ました。溜め込んでいるよりも外に吐き出した方が良いですから」
他の机から椅子を引っ張り、コーネリウスを半ば無理矢理そこへ座らせた。
弥生は自分が元々使っていた椅子を引きずってラシェルの横に並んで腰を下す。
話をするまで逃がさない雰囲気を醸し出す弥生に、コーネリウスは一つ息を吐くと重い口を開いて話し始める。
今回命を狙われたことでパシオン国王は自身の力の衰えを感じ、衰弱した体も回復に時間ぎかかるということもあって、そろそろ王位を退こうと思ったらしい。次代の王候補は双子の王子フェリクスとエルヴィス。コーネリウスは王になる気が元よりなかったので早々に継承権を放棄してあったそうだ。三つ巴は回避されたものの、長兄フェリクスが王になるか、次兄エルヴィスが王になるかで彼らの派閥が争っている。
どちらかが劣っていればまだ良かったのだが、二人はそれぞれ秀でた点があった。
フェリクスは少々軽く見えるが内政面に秀でており、現在は国王の代わりに国内の政務を行っている。
エルヴィスは無愛想そうだが外交や商業面に秀でており、現在国交や国主体の商業事業を担っている。
これは特に秀でている部分であって、フェリクスも外交は問題なく行えるし、エルヴィスも内政面に明るいのでハッキリと優劣がつけられない。国王自身も決めかねているほどだと言う。
お互いに腹を割って話し合わせようとしても不仲で、互いに必要以上顔を合わせなければ会話もしない。本人達がそうなので派閥も自然と互いに反発し合ってしまっている。
「それで血で血を洗うって話になるわけですね」
「ええ。兄上達はそんな愚かなことはしないと思いますが、過去には兄弟同士やその派閥同士で毒を盛り合って死んだ者達もいるだけに、正直不安は拭えません」
一通り話終えて少しは落ち着いたのかコーネリウスは溜め息を零す。
弥生はまず自分の疑問を口にした。
「両方王様にはなれないんですか?」
これにはコーネリウスだけでなくラシェルも珍しく驚いた雰囲気を滲ませて弥生へ振り向いた。
「国王になれるのは一人だけだよ」
「どうしてですか?」
「王になるための儀式があって、神の制約により一つの魂に一つの王位と定められているんだ」
「でもあれだけ似てたら一卵性だと思いますけど」
「イチランセイ?」
首を傾げた二人に元の世界の双子の説明をする。
一卵性は一つの卵子に一つの精子が受精し、それが二つに分かれたものだ。
二卵性は一つの卵子に一つの精子が受精したものが子宮内に同時に二つあるということだ。
一卵性は血液型や性別、DNAまで同一らしいが、二卵性は別々なので外見も全く異なる場合がある。雰囲気が違うものの、顔立ちは目元で何とか判別がつくくらい似ているので一卵性という可能性は捨て切れないだろう。
一卵性だったら元は一つの卵子なのだからら魂も元は一つじゃないのかというのが弥生の考えだった。
一卵性と二卵性の話を終えるとコーネリウスとラシェルは何やら考え込んでいたが、これは話し合っても答えが出るものでもないので話題を取り下げ、別の問題を挙げた。
「そういえば不仲って言っていましたが、それは昔から?」
双子は反発し合うか仲良しかでかなり分かれると聞く。弥生の問いにコーネリウスは首を振る。
「いえ、昔はとても仲が良かったです。それが何時の頃からか互いに話さなくなり、段々距離が開いて、気が付いた時には今のような状態でした。また昔のように仲の良い兄上達に戻ってくれたらと思います」
「なんだ、結論出てるじゃないですか」
「え?」
コーネリウスがきょとんとした表情を見せる。
弥生は焦れったいなと言葉を続けた。
「だから仲直りさせればいいんですよ」
* * * * *
目の前にいる少女の言葉に、私はつい机に視線を落とした。それは口で言うほど容易くない。
「でも兄上達は……」
「‘でも’も‘だって’もない。やらなきゃ始まりません。何もしてないうちから諦めるなら何も変わりません。それとも、コーネリウスさんはこのままで良いって言うんですか?」
漏れた言葉をぴしゃりと跳ね除けられて、ぐうの音も出なかった。
指摘通り、仲直りしてくれたらと思う一方で、そんなことは無理だとも考えていた。それを見透かされたようでバツの悪い気持ちと共に途方に暮れる。
兄上達の溝は深い。弟の自分でさえどうにもならないことなのだ。
それを目の前にいる少女はやろうと言うのか。
「とりあえず、まずは不仲の理由を確かめますか」
「そうだね。原因が分からないと対処のし様がない」
少女の言葉にその保護者の魔法士が一つ頷く。
顔を上げれば二人が私へ振り向いた。
「乗りかかった船です。精一杯やりましょうよ」
不安や怖れのない黒い瞳に真っ直ぐ見つめられて、気付けば頷いていた。何故かやる気に満ち溢れている少女に思わず苦笑が漏れる。
父から読むように渡されたカルトフリーオ国王からの手紙で少女は異世界から召喚されてしまった人間だと知ってはいたが、まるでこちらの常識を打ち壊すような彼女の言葉は不思議なことに嫌味がない。
「とは言え、下手に嗅ぎ回って無用な疑いは避けたいな。いっそ、それぞれ個別に聞いてみるかい?」
「あ、じゃあ私フェリクス王子側で。さっきエルヴィス王子と険悪になっちゃいました」
「何がどうしてそうなったの?」
あっけらかんと王子と不仲になったことを告げた少女に魔法士が問う。
私から状況を聞いた魔法士に「君は意外と喧嘩っ早いよね」なんて言われて少女は「うっ」と言葉に詰まって視線を逸らしていた。
先ほどの自分もこんな感じだったのだろうかと考えたら自然と笑みが浮かぶ。
それから話を誤魔化すように、彼女はこちらを見て笑った。
「そういうことなので、コーネリウスさんには私達がそれぞれの王子に会えるよう何でも良いので約束をもぎ取って来てくださいね」
その言葉に今度は自分の意思で頷き返した。
無駄な争いを起こさせないために、肩を並べて笑い合っていた兄達の懐かしい後ろ姿を脳裏に浮かべ、私に出来ることは全てやってみようと心に決めたのだ。