書庫で弥生は文字を覚えながら魔法について勉強を、ラシェルは主に転移魔法――弥生をこの世界へ招き入れた魔法はどうやら召喚魔法を基礎に、転移魔法を応用して組み上げたものだったらしい――について引き続き調べていた。
そろそろ日が傾きかけてきたので二人が本を片付けていると、書庫の扉が開く。思わず同時に振り向いた弥生とラシェルの視線に、入室した人物がちょっと驚いた顔をする。
「あ、コーネリウスさ――……様?」
言い直した弥生に名前を呼ばれた方は苦笑した。
「公的な場でなければ今まで通りで結構ですよ」
それからコーネリウスは二人にこの後の予定を聞いてきた。
宿に戻って夕食を摂るくらいだとラシェルが言えば、どういう訳か城で食べて行かないかと誘いの言葉を口にする。いくら旅先で多少親しくなった仲であってもこれは些か不自然だった。
当然、弥生だけでなくラシェルも疑問に感じて問い返す。
「僕達に何か御用でしょうか?」
淡々とした声音にコーネリウスも真剣な表情を見せる。
「実は折り入ってご相談したいことがあります」
「それが僕達の、特に彼女の身に危険が及ぶことならばお断りします」
保護者はぴしゃりと跳ね除けた。これには弥生がギョッとした。
傭兵の誘いを断るのと、王子の誘いを断るのとでは訳が違うのだ。
しかしコーネリウスはそれでも食い下がってくる。
「もし何かあれば私が責任を持ってお二人を護ります。不安であれば城に滞在されても、私の近衛達を護衛としてつけても構いません。ですからどうか話だけでも……」
「それは聞いてしまった以上は後戻りの出来ない話ではありませんか? 僕は王命に従い、彼女の身の安全を優先しなければなりません。危険を伴うことは極力避けたいのです」
ラシェルの鋭い問いにコーネリウスがぐっと押し黙る。沈黙は肯定だった。
弥生は二人のやり取りにどうすれば良いのか分からず隣にいる保護者を見上げた。普段から淡々としているが今の保護者は容赦がないような気がする。それもこれも自分のためかと思うと、弥生は安易に‘話を聞いてみよう’などとは口を挟めなかった。
互いに一歩も譲らない状態の中、別の声が入ってきた。
「ではこの国に滞在中、閲覧禁止の書庫に立ち入る許可を貴君らへ出そう」
入って来たのは二十台半ばから後半くらいの若い男性だった。やや吊り気味の目元は別としても、どことなく面差しがコーネリウスに似通って見える。品の良い装飾品に、上等な布地に繊細で美しい刺繍の施された服に身を包んでいた。
その男性の言葉にラシェルが少し考えるように目を伏せた。
視線がそのまま弥生へ向けられる。眼鏡のレンズ越しに問い掛けられる。
弥生は突然入ってきた男性とコーネリウス、そしてラシェルを順繰りに見た。
「今日調べてどうでした?」
何が、と言わなくとも保護者には通じた。
「めぼしいものは何も」
弥生は次に、少し離れた位置にいる男性へ顔を向ける。
「閲覧禁止の本とは一体どのような内容かお聞きしても?」
「国家機密としか言えん。だが貴君らが探しているものも多少はある」
この男性は恐らくカルトフリーオ国王が書いた手紙を見たのだろう。
コーネリウスと似た顔立ちや地位の高そうな感じからして、多分この国の王族だ。
視線をラシェルへやれば、欲しい答えが返って来る。
「それが王族と宮廷魔法士にしか閲覧を許されない書物なら可能性はある。ただ、これに危険を冒すほどの価値が本当に在るかどうかは分からない」
決めかねている様子の保護者に弥生も考える。
危険な話を聞いてまで見るべきものか、それが役立つのか、しばし逡巡(しゅんじゅん)した。
危ないことはしないでと言っていた従姉妹の言葉を思い出しつつ、同時にすぐ傍にある可能性に手が届かないことへの未練も心の中に生まれていた。自分一人ならば即答出来たかもしれないが、ラシェルも共にとなると話が違ってくる。自分以外の人間の命まで背負う勇気が弥生にはなかった。
そこで何故コーネリウスとこの男性が突然こんな話を持ちかけて来たのか疑問になった。どう考えても二人が必要としているのはラシェルの方であろうし、閲覧禁止の本を見せてでも何とかしたいのは二人にとってこの案件は余程重要なのだろう。
弥生は顔を上げるとラシェルを見上げた。無表情は変わらない。
「私は、可能性があるなら調べてみたいと思います。それが自分勝手だということも重々承知しています。危険と言っても、本当の意味ではまだ私も分かっていないのかもしれません。でもやっぱり確かめたい」
「どうしても?」
「何もしないで後悔するより、やって後悔する方がマシです」
ラシェルは一度目を閉じると小さく頷いて口を開いた。
「分かった」
それからコーネリウスと男性へ顔を向ける。
「その話、お聞きしましょう。しかし彼女が危険な場合にはこちらを優先します。これは|カルトフリーオ国王(レイ・カルトフリーオ)の意向であり、僕はその命を受けておりますのでご了承願います」
「ああ、覚えておこう」
男性が頷き、少しだけコーネリウスがホッとした表情を見せた。
そうして男性は踵を返して行ってしまい、弥生達は手早く荷物を纏めてコーネリウスに案内されて別室へ招かれた。あまり広さはないものの、暖炉や壁に美しい彫刻がされたそこは応接間だと説明される。大きなテーブルには席が四つ設けられており、入り口から入って手前の左側にクライヴが座っていて、扉を開ける音に気付いたのか振り返った。
「話はつきましたかい?」
「ええ、何とかエル兄上が交渉してくれました」
「そうか、あの方も交渉事が得意でいらっしゃましたね」
やっぱり先ほどの男性は王族だったか。弥生は内心で胸を撫で下ろした。
ラシェルは驚いた様子がないので、こちらも気付いていたのだろう。
勧められてクライヴの向かい側にある席へ座る。ラシェルは弥生の横に、コーネリウスはラシェルの向かい側でクライヴの隣の席へ腰を下し、テーブルにあった呼び鈴を鳴らした。しばらくしてサービスワゴンを押した侍女が数名やって来て料理を並べ、深々と頭を下げると去って行く。
「どうぞ。事の仔細については食べながらお話します」
その言葉にラシェルが頷いて食器へ手を伸ばす。
弥生もとりあえず食べ始めたものの、話が気になってあまり進まない。
少ししてコーネリウスが口を開いた。ラシェルに頼みたい内容を簡潔に述べると‘父親に何か魔法がかけられていないか調べること’だった。現在のパシオン国王が一月ほど前に突然倒れたというところから話が始まり、王宮仕えの医者が調べても病気の兆候や毒の類の症状はなく、それなのに日に日に衰弱していく一方であるのだと言う。魔法士が調べると魔法の形跡が発見された。
けれども魔法をかけたのが誰なのか、どんな魔法をかけられたのかはサッパリ判らない。
この状況が長く続けば国王は崩御されるかもしれないという連絡を受けてコーネリウスは傭兵としての旅を止めて慌てて自国に舞い戻って来たのだが、その途中でラシェルと弥生に会い、渡された手紙から六カ国の中でも魔法に優れているカルトフリーオの王家に仕えている魔法学者と知ったため、昨夜の内に兄弟王子達と話し合ってラシェルへ相談を持ち掛けることが決定したそうだ。
一瞬、他国の魔法士をそんな簡単に信用して良いのかと弥生は感じたものの、すぐにこの世界では現在六カ国全てが同盟を結んでいるため国家間での戦争が長らく起こっていないことを思い出した。
「調べるのは構いませんが、僕が何かを見つけられる保障は出来ません」
「それは承知しています」
苦い表情で頷くコーネリウスにラシェルは幾つか質問をした。
一月前と言ったが衰弱し始めた正確な時期、国王が今どの程度衰弱しているか、衰弱の仕方はどうであったか、魔法について調べた後に何か手を加えたかどうかなど、何度か質問を繰り返した後に首を振る。
「聞いた限りだと僕が知る魔法でも、それに該当するものはありません」
「そうですか……」
「ですが実際見てみれば何か糸口が掴めるかもしれません」
「ええ、お二人の都合さえ良ければ明日にでも陛下とお引き合わせします」
コーネリウスの言葉にラシェルは一つ頷いた。
黙って聞いていた弥生は随分大事に巻き込まれたことに今更ながら気が付く。一国の王の命に関わることに携わって大丈夫なのかと心配になる。もしもの時に責任を求められたらどうしようか。
そんな気持ちが顔に出ていたのかコーネリウスが弥生を見た。
「もしもお二人に責任を求める者が出たとしても、私が対応しますのでご心配なく」
「僕も出来うる限り協力しましょう」
「よろしくお願いします」
コーネリウスとクライヴに頭を下げられて、ラシェルはまた一つ頷いた。
今回自分は何もすることはないのだろうなと弥生はどこか別の世界の出来事みたいに眺め、目の前に並べられている料理を口にする。恐らく美味しいはずの料理はあまり味わう気分にはなれなかった。
宿に置きっ放しの荷物もあるのでその日は宿へ帰ることになった。
翌日からは城の客間に泊まらせてもらう予定である。
クライヴに送られて宿へ帰ってきた二人は荷物を纏めた。
ベッドに寝転がった弥生はぼんやり天井を見上げながら呟く。
「そもそも、私は王様に会う必要ないじゃん」
それを拾った保護者が珍しく隣のベッドへ腰掛けて返す。
「僕には分からないことも、君の目には違って見えるかもしれない」
「魔力は全然見えないのにですか?」
「どんな物事にも色々な方向から調べるのは学者としての意見だけどね」
それは確かにそうだと弥生は素直に納得した。
「だけど病気でも毒でもないのに衰弱なんてありえます?」
「あまり食事も摂っていないようだから悪循環しているのかもしれない」
「体が弱って、食事が食べられなくて、更に弱って?」
「そう」
それならありえそうだ。元の世界でも高齢者が食が細くなり、栄養不足で体が弱くなり、病気になったり足腰が立たなくなったりするのはわりとよく耳にしていたからだ。
ラシェルが言うように、人から聞くよりも一度自分の目で見た方が分かることも多いだろう。
「パシオンの王様ってどんな人か知ってますか?」
「確か、大らかで飄々とした感じの方だったよ」
「……ラシェルって偉い人と意外に面識ありますよね」
「王家に仕えてると自然と他国の王族を目にする機会が増えるから、何度か見ているうちに覚えたんだ。向こうは僕のことを知らない場合の方が多いだろうけど」
カルトフリーオの王城ではラシェル以外の魔法士は殆ど目にしなかったし、例え見かけても必要以上他人との関わりを持ちたくないといった研究者気質な雰囲気の人々だったので話したことは全くない。
それでも王族が出掛ける時は騎士と同じく護衛に混ざるのかもしれない。
そう考えると実はラシェルは結構高い立場の人間なのだろうな、と弥生は保護者を見た。
国王と言葉を直に交わせ、信頼も厚そうな宮廷魔法学者が低い身分だなんて思えない。
当の保護者は向けられた視線に首を傾げ、弥生は何でもないと軽く首を振って見せた。
「そうだ、今度魔法言語も教えてください。本を読んでいても詠唱部分が全く分からないです」
「それはもう少し共通語の読み書きが出来るようになったらね」
ラシェルの言葉に手紙を思い出してうっと弥生が呻く。
読むのは大分出来たが書くのが難しい。何せ装飾性のある蔦みたいな筆記体文字なので、繰り返し読むことで一文字一文字の判別は何とかなっても、いざ書くと思うように書けないのだ。ペンと紙にも多少問題はあるかもしれないが、元の世界で例えるならばアラビア文字に似ている気がしないでもない。日本みたいに一文字で一つの音ではなく、二つあるいは三つ組み合わせて一文字として読むのでローマ字や英語を勉強している気分になる。ただ文の構成は日本語と同じなのが救いだった。
漢字みたいに一文字で意味や発音がある程度予測出来る文字であればもう少し習得は早かったかもしれないけれど、残念ながらそうは都合良くいかない。弥生は深い溜め息を零す。
「この世界も日本語だったら良いのに」
「僕は君の国の言葉の方が難しそうに見えたよ」
「ああ、まあ日本語は元の世界でも結構難しい言語とされていましたね」
何せ平仮名、片仮名、漢字に記号。全て暗記モノなのだ。漢字なんかは見ると何となく意味や読み方が分かるけれど、それも義務教育をきちんと受けているからこそであって、勉強を疎かにしていた人には読めない単語も多い。普段の生活で目にする機会のない漢字や言葉もあるくらいだ。
「君が書いていたのを見ただけでも文字が四種類に分かれていた」
「平仮名、片仮名、漢字、記号ですね。平仮名も片仮名もそれぞれ五十ずつ同じ音に対応するものがありまして、そこに濁る音とかが入るのでそれだけで百は超えますし、漢字や記号も合わせたら数千はいきます」
「それは国民全員が覚えてるの?」
やや驚きを滲ませた声に頷き返す。
「全ての文字を完璧にとは言えませんが、大体の人は読み書きが出来ます」
「それなのに此方の文字はなかなか読めないんだね」
「まず形が違うので分かり難いですよ。私には蔦にしか見えません。しかも文章構成も違います」
「そういえば君の従姉妹はミミズがのたうち回ってるって言ってたよ」
ラシェルが思い出したのか器用に片方眉を上げた。
従姉妹が慣れない文字に四苦八苦しながらそう言っているところが簡単に想像出来てしまい、弥生は思わず噴き出した。自分より文系の勉強が苦手な従姉妹のことだからもっと苦戦したはずだ。それでも習得したと言うのなら弥生も頑張ってみるしかない。
ごろりとベッドを転がって弥生は隣のベッドに座るラシェルの前へ移動した。
「前言撤回します。まずは読み書きを完璧にして、その後に魔法言語を習います」
「うん、頑張って」
本当に応援しているのか分からない無表情でラシェルはそう言った。