コーネリウス達が戻って来ると弥生とラシェルが交替して湖へ向かう。
建物の裏にある湖は小さいと言っても直径百から百五十メートルくらいの楕円型をしており、覗き込むと小さな魚が浅瀬に留まっているのが見えた。透き通った水は淡い青碧色だ。
「君から先にどうぞ」
そう言ってラシェルは傍にあった少し太めの枝を拾い、湖に背を向けて座った。
弥生は一瞬躊躇ったものの、この保護者が覗きなどしないだろうと思い直し、湖に近いところで服を脱いで着替えなどと共に畳んで置くと水へ足をそっと入れた。ひんやりと冷たくて心地好い。ずっとじんわり汗を掻いていたので弥生は浅瀬に座ると肌を優しく撫でるように水をかけた。
見上げた空には満月には少し足りない月がぽっかり浮かんでいる。
静かな森に弥生が水浴びをする音と、ラシェルの方から何かを擦っているようなシュッ、シュッという規則正しい音が響く。振り返ればきちんと保護者は背を向けていた。振り向く気配すらない。
弥生はもう少しだけ湖の中へ入り、一度大きく息を吸って水面に潜った。
月明かりがゆらゆらと揺れながら差し込んでくる水中は神秘的で、少しの間、弥生は泳ぎを楽しんだ。小魚を追ってみたり、水中から水面を見上げてみたり、プールとは全く違う自然の美しさを眺めて過ごし、髪の水気を切りながら湖から上がる。
着替えと一緒に置いておいた大きな布で体と髪を手早く拭って服を着込んだ。
「何してるんですか?」
保護者の横に腰を下した弥生に大きな手が伸びる。
「髪、きちんと乾かさないと風邪を引くよ」
頭にかけっ放しの布でわしわしと髪を拭われた。丁寧に、けれど少しぎこちない手付きで髪を拭くラシェルに弥生は目を閉じてされるがままに身を任せる。大体拭くとラシェルは確認するように黒髪を少し摘み、乾いていることにどこか満足げに頷いて手を離した。
弥生は先ほどの問いを今度はもう少しだけ突っ込んで聞いた。
「これ、槍ですか?」
ラシェルの足の上には小さな木の一本槍があった。先ほどまでしていた何かを擦る音は、これを削る音だったのか、周りには木屑が散らばっていた。槍はなかなかに鋭く削られている。
「うん、水浴びがてら魚でも獲ろうと思って」
ラシェルが立ち上がって服に手をかけたので弥生は森へ顔を向けた。
しばらく衣擦れの音がした後、水に入る音がした。
弥生は頭にかけたままの布で乾きかけの髪を拭いたり、そこら辺に落ちている枝で地面を掘ったり、とりあえず時間潰しと気を紛らわすために意味もなくそんなことを繰り返す。
しばらく水音がした後、ラシェルが水から上がる音がし、魔法の詠唱らしき呟きが聞こえる。二度ほどそれは続き、元着ていた服にも魔法をかけてから着直しているようだった。
「もう良いよ」
その声に振り返れば丁度後ろで髪を纏めているところであった。
腰近くまである髪を後ろで緩く一つに束ね、紐で適当に括り、ラシェルは弥生の持っていた服と頭にかけっ放しだった布にも魔法をかけて汚れを落とした。魔法というのは便利なものだ。
さっきの短い時間で魚を獲ったらしく、その辺の木々に絡まっていた蔦を取ってきて、ラシェルは魚のエラ部分に通して行くと浅瀬の狭い隙間に隠すように魚を入れた。エラに蔦が通っているので逃げられることはない。蔦を近くの岩に適当に縛り付けるとラシェルは一仕事終えた様子で戻って来た。
「明日の朝食は焼き魚だ」
ラシェルと共に建物へ戻る。コーネリウス達に魚を獲ったことを保護者が伝えると喜ばれた。
朝に起きて狩りをするのはやはり面倒臭いらしい。
保護者が建物全体に防御と雨避けの魔法をかけた。コーネリウス、クライヴ、ラシェルはしばらく話していたようだが、弥生は慣れない乗馬経験のお陰か焚火の傍に腰掛けるとすぐに眠りに落ちてしまう。
それに気付いたラシェルが自身の上着を敷いた上に寝かせてやるのを、コーネリウス達が微笑ましげに眺めていたのだが、熟睡していた弥生がそれを知ることはないだろう。
* * * * *
翌朝、弥生が目を覚ませばラシェルが焚火を点け直そうとしているところだった。
少し隙間を空けて重ねられた枝に大きな手が翳される。
「ファイア」
微かな詠唱の後、その一言でぽっと枝に火が灯る。それが消えてしまわないうちに枝を寄せ集め、少し火が大きくなったところで太い枝を重ねていく。湿った木があったのか少し燃え難そうだ。
弥生が体を起こすとラシェルが振り向いた。
「おはよう」
「おはようございます」
まだコーネリウスとクライヴは眠っているようで横になったままだ。
ふと自分が下敷きにしているのがラシェルの藍色の上着であることに気付く。
「すみません、コレ汚しちゃって…」
慌てて立ち上がって持ち上げた上着を払うと保護者はのんびり首を振った。
「僕が勝手にしたことだよ。それより良く眠れたかい?」
「はい、乗馬で疲れたのかぐっすりでした。顔洗って来ます」
「うん」
荷物から布と化粧水を持って建物の裏の湖へ向かう。
寝起きに冷たい水が心地好く、丁寧に顔を水で洗った後、化粧水をつける。この化粧水は現代の物とは違うので一月も持たないらしいが、自然のものだけということもあって使うと肌がすごく潤う。
ぺたぺたと化粧水をつけているとラシェルがやって来て昨夜の魚を持っていく。
何となくその後を追って戻り、魚が料理されていくのを眺めた。
手伝うことはないか聞いたけれども「ないよ」と言われたのですることがなくなった弥生は、一旦建物の外に出ると軽く体操でもしようと思い立った。まず何時もの体操をしてから重点的に足を解す。今日も馬に乗るので少しでも今ある筋肉痛を和らげようとした。
ある程度体操を終えて建物内に入るとコーネリウス達が起きたところだった。
「おはようございます」
「おう、早いな嬢ちゃん」
「おはようございます」
近付けば魚の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
コーネリウスとクライヴが顔を洗いに行って戻って来てから、良い感じに焼き上がった魚をラシェルがそれぞれに分け、四人で朝食を食べた。骨の多い魚だが味は淡白であまり臭みがなく美味しい。弥生が食べたのは一番小さな魚だったが、食べ終わるのは皆とあまり変わらなかった。
荷物を馬へ積み直して今日の乗馬が始まる。弥生は変わらずラシェルの後ろに乗った。
昨日と同じ速度ならば昼に休憩を入れても日が落ちる前に王都に着けるらしい。
本来馬車で四日かけて行く道と二日で駆け抜けるのかと思えばかなりの距離だ。
「行くよ」
「はい」
最初はゆっくり駆け、昨日と同じく馬は徐々に速度を上げていく。
幸いまだ忘れていない乗馬の感覚を頼りに何とか振り回されずに弥生は乗っていたが、ラシェルが出来る限り岩や木の根などの障害物を避けるように走らせていたお陰もあって昨日より若干速く走っていた。
弥生からすれば保護者の長身で前が見えないので、しがみ付きながら横を向いて流れて行く緑をずっと見送るしかない。時々木々の隙間に小動物や鳥が見えたが気にする余裕はなく、とにかく馬の動きに合わせて体に衝撃が来ないようにするので精一杯だった。
一刻ほど走ったところで一行は休憩を挟む。
これまたラシェルに下してもらい、弥生は自身の足で近くの木の根元に腰を下す。
まだ今日の行程の四分の一ほどしか進んでいないのに昨日の筋肉痛も引き摺って足が微かに震えている。短い休憩の間に足を撫でたり揉んだりしてやりながら弥生はふと疑問に顔を上げた。
「そういえば早馬って言っていましたけど、借りると一頭一日でどのくらいするんですか?」
その問いにコーネリウスが首を振った。
「早馬は貸し出しをしていません」
「じゃあこの子達は?」
「我々の馬ですよ。お二人が乗っているのは厳密に言うと違いますが、まあ似たようなものです」
思わず首を傾げたものの、この早馬がコーネリウス達の馬だということは分かった。
木の根に腰掛けながら弥生は傍にいる馬を見上げた。柔らかなブラウンの毛並みは艶が良く、その下に引き締まった筋肉があり、首周りから足まで改めて見ても太くがっしりとしている。
「傭兵って意外とお金持ちなんですね」
ほう、と素晴らしい馬を見上げていた弥生にラシェルが振り向いた。
「何でそう思ったの?」
「だって馬を飼うって結構お金かかりますよ。一年間の餌代だけでも馬鹿になりませんけど、世話する人を雇うお金とか必要な道具を揃えるお金とか、馬小屋だってないと困りますし、体調が悪くなったら医者に診せなくちゃいけませんから」
「そういう所はどこも変わらないんだね」
「ああ、そうかもしれませんね」
何故ラシェルに問い返されたのか気付いて弥生は頷き返した。
この保護者はあまり元の世界について問うことが少ない。
それは人目のある場所でこの世界の常識ではないことを口にしないためでもあったが、一番は弥生への配慮だった。元の世界のことについて触れれば家族や友人などの親しい者を思い出して辛くなるであろうと思ったラシェルは、普段話題に挙がらない限り彼女の故郷について深く掘り下げはしない。
弥生が納得した風に頷くのをコーネリウスとクライヴは少し不思議に感じていた。自己紹介を聞いた限りは良い所の箱入り娘とその教師だと聞いていたが、二人の様子を見ると、どうもそれだけではない雰囲気だ。では一体どんな関係かと問われれば首を傾げてしまうけれども何か微かな違和感がある。
それが完全な疑問に変わる前に、弥生が「よっこいせっ」と立ち上がる。
何度かその場で跳ねたり膝を曲げたりして足の状態を確認した。
「よし、行けます」
元々休憩は乗馬に不慣れな弥生のために取っているものだ。
その弥生が大丈夫だと言うので、コーネリウス達は休憩を切り上げてまた馬に跨った。
辺りには風が梢を揺らす音と馬が地面を駆け抜ける力強い足音が響き渡る。
更に二刻ほど走って、昼食を摂るために休憩を挟む。
昼食はコーネリウス達が馬に積んであった荷物から干した肉と硬いビスケットのようなものをくれた。干し肉もビスケットもかなり硬いので、水を飲みつつ弥生はちびちびそれを齧って食べた。ビスケットは小麦粉の味だけで、干し肉はスープに入れたら丁度良さそうな塩辛さだった。
「お二人は王都に着いたらどうされますか?」
コーネリウスの問いにラシェルが答える。
「宿を取ってから王城に伺うおうかと」
「王城に?」
不思議そうに問い返されたが、ラシェルは一つ頷くだけだった。
しばし逡巡したコーネリウスは「そうですか」と引き下がる。
味気ない昼食を終えた後はまた馬へ乗って王都への道を走り続けた。途中、前回の船で来たのだろう馬車を二台追い越していった。カルトフリーオで見たのと同じ馬車だったが風を通すためか後方は開いていた。
馬はその脇を抜け、馬車はすぐに道の向こうに消えてしまった。
ラシェルに休憩を取るか聞かれて断り、そのまま二刻は走っただろう。
やがて夕方になり疎らに生えた木々の向こうに平原が開け、小高い丘の上に高い壁と城が見えた。街は城を囲むようにあるらしく、階段のように建物が段違いに建てられているのが分かる。
馬の速度を落として近付けば街の周囲を更に堀で固めてあることに気が付いた。
吊り橋だろう木製の橋を渡り、そこからは馬を下りて街中へ入る。
白やアイボリー色の壁をした家々は今までの国とは違って四角い形、子供が元の世界にあるビルを描いたらこんな感じになるのでは、と思わせるような少し丸みを帯びた建物が軒を連ねている。道の左右にはその家々の前でテントを広げて屋台がひしめき合う。活気のある客への掛け声がどこそこから聞こえてくる。
「なんだかカルトフリーオやエステルノとは雰囲気が違いますね」
ちょっと震える足に力を入れて歩いていた弥生が周囲を見回しながら言う。
「うん、此処は六ヶ国の中で最も個性的だよ。建物も、服装も、暑い国ならではだ」
服装も長袖ではあるがラシェルが最初に着ていたような袖や裾が広がっているものや、布を巻いたようなゆったりしたものを着ている人々が多い。でも意外なことに手足を晒している者はいなかった。
こちらの世界では人目に肌を晒すのははしたないそうなので暑くても長袖らしい。日差しが強いそうなので半袖半ズボンでいたら一日で焼けてしまうから、という理由もなくなさそうだが。
だが案外傭兵や弥生達のような服装の人々も多く、目立つといったことはない。
街中を真っ直ぐ進んでコーネリウス達は城の方へ向かって行く。
どこまで行くのかと思いながらついて行けば、とうとう城門にまで来てしまった。城の周りには街の外と同じような壁がぐるりと立ちはだかっており、門には騎士というよりも兵士に近い感じの者がいた。その兵士達はコーネリウス達を見ると踵を合わせて直立不動になる。
「職務、ご苦労様です」
「はっ!コーネリウス様のご帰還、喜ばしく思います!」
「ああ、ありがとう」
コーネリウスは兵士へ声をかけてから弥生とラシェルへ微笑んだ。
「ようこそ、我が国へ」
兵士がコーネリウスを‘様’付けしたこと、パシオンを‘我が国’と言ったことを考え、目の前にいる優しい風貌の青年の立場に行き着いた弥生は大通りであることも忘れて「えええっ!?」と声を上げた。
クライヴが楽しそうにコーネリウスと自分の正体を明かす。
「コーネリウス様はこのパシオンの第三王子、俺はその近衛ってぇことだ」
弥生はしばらく開いた口が塞がらなかった。