三日間の船旅の最終日、それは突然に訪れた。
正午を過ぎ、昼食を終えた人々が寛いでいると突然が船が大きく揺れたのである。
景色を見に甲板にいたラシェルと弥生はその揺れで床へ倒れ込んだものの、怪我はなく、しかし頭上に現れた存在にすぐ緊急事態だと察した。大きな影が二人と、その周りにいた人々を覆う。
「な、なにこれ…?」
全長は四、五メートルはあろうか、全体的に青みがかった蛇のような手足のない体に蝙蝠の翼を持った生き物が空を飛んでいる。顔はワイバーンによく似ているが牙はそれよりもずっと鋭い。ぐるぐると横向きに螺旋を描くように体をくねらせている。
「ワイアームだ!」
近くにいた男性が声を上げた。
瞬間、その男性が視界から消える。
振り返れば出入り口の扉に男性が叩き付けられるところだった。
一匹ではない。一、二、三――…全部で五匹だ。
男性の近くにいただろうワイアームが振り切った尾を戻す。
「僕から離れないで」
短く告げ、ラシェルが弥生を背に庇いながら左手を前へ出し魔法の詠唱を口にする。
それを阻むためかワイアームの尾が勢いよく弥生とラシェルに振り下ろされた。だが、バチンと電流が走りその尾が弾き返される。弥生にかけられた防御魔法の発動する音だった。ラシェルはまだ唱えている。
「うおおらぁああっ!」
大きな声と共に弥生達とワイアームの間に人影が飛び込んで来た。
甲冑を着込んだクライヴが襲い来る尾を大剣で受け、打ち返すように弾く。
金属同士がぶつかる音が今度は背後から響く。見ればこちらにはコーネリウスが剣を構えていた。
ワイアームの出現に甲板はパニック状態になり、出入り口は中へ入ろうとする人々と戦いに外へ出ようとする傭兵で入り乱れてしまっている。あまり広くない出入り口は完全に詰まっているだろう。
いつの間にか火蜥蜴がラシェルの肩に乗ってぺろりと舌を出す。
同時にラシェルが平坦な声で告げる。
「ファイア・バースト」
それは傍にいる弥生とクライヴ、コーネリウスだけに届いた。
すぐ目の前にいたワイアームの体がぶわと風船みたいに膨らんだかと思うと、内側から爆発するように四方へ飛び散る。ラシェルと弥生は防御魔法で何ともなかったが、傍にいた他の二人は「うわっ」と声を上げつつ飛んできた肉片を剣で避けた。
噛み付いてきたワイアームの牙を剣で受け止め、蹴り飛ばしながらクライヴが口笛を吹く。
「こりゃスゲェ!やっちまえ兄ちゃん!!」
頷いたラシェルが再度詠唱に入る。
弥生とラシェルの後方を護るコーネリウスが素早い一閃で近くにいたワイアームの片翼を切った。ギャアと悲鳴を上げるそれへ迷わず二撃三撃と細身の剣が追撃する。硬い鱗を狙わず、翼の付け根や目を的確に切りつける様は、こんな場面でなければ踊っているかのように軽やかだ。
チラと保護者がコーネリウスへ視線をくれれば、バックステップでワイアームから離れる。
傷だらけになったワイアームへラシェルが手の平を向けた。
「ウィンド・アロー」
鋭く空気を裂く音と共にラシェルの手から放たれた風の矢が三つ、ワイバーンの首を抉り、勢いのまま千切り飛ばす。首を失った体と引き離された首が甲板に落ちて血溜まりを生み出していく。
ワイアームはあと三匹。ようやく出入り口から他の傭兵が飛び出してくる。
「しつけーんだよ、蛇野郎が!!」
クライブが力任せに大剣を横殴りにワイバーンへ叩き付ける。
それを受けたワイアームは堪らずといった様子で声を上げ、耳を劈くそれに弥生はビクリと震えた。目紛(めまぐ)るしく動く周囲と状況にただジッと立ち尽くしていることしか出来ない。
大剣を受けて甲板に落ちたワイアームの喉笛にクライヴが剣先を突き立てる。
苦しげな悲鳴が少しの間響き渡り、動かなくなる。
やって来た他の傭兵達が剣や槍で一匹のワイアームを切り刻んだ。
最後の一匹がクライヴに食い付こうとしたが大剣で受け止められ、その隙にコーネリウスが首の付け根に剣を突き刺し、横へ薙ぐように切った。首が半分千切れたワイアームは床に落ちてしばらくは荒く呼吸を繰り返していたけれど、やがて絶命する。甲板に五匹のワイアームの死体が出来上がった。
「ヤヨイ?」
保護者に声をかけられて、弥生はようやく自分の体が震えていることに気が付いた。
大きな手がそっと労わるように背中へ触れたが俯く顔を上げられない。
「どこか怪我でも?」
「いえ、彼女はこういうことが初めてで…」
「ああ、道理で顔が真っ青な訳だ」
ラシェル、クライヴ、コーネリウス達の会話が頭上を通り抜けて行く。
何とか立っていることに気付いたのか、ラシェルはひょいと弥生を抱え上げ、クライヴとコーネリウスに一度軽く頭を下げて船内へ戻る。向かう先は割り当てられた部屋だ。
弥生を抱えたまま器用に鍵を開け、部屋へ入ったラシェルは足で扉を閉める。
二段ベッドの下の段に弥生を下して膝立ちになると、その顔を覗き込んだ。
「大丈夫、もう終わった。危険はないよ」
淡々とした言葉に弥生の目から涙が零れ落ちた。
堪えるように泣く弥生の肩を引き寄せて、ラシェルは自分よりも小さな背中に腕を回す。ぽんぽん、と背を叩いて宥める仕草に、傍らにある体温にしがみ付いて弥生は声を上げて泣き出した。
自分が非力だとか、足手纏いだとか言う前に、ただただ怖かった。
ワイアームに尾を振り下ろされた時は死ぬかと思った。ラシェル達がワイアームを倒す度、血が流れる度に、耳障りな悲鳴が轟く度に、血の気が下がるほど酷く恐ろしかった。
ラシェル達のやり取りから恐らくこういうことが時々あることが分かる。
カルトフリーオの王都を出る時も少なからず危険は覚悟の上であった。
けれども、やはり実際‘戦い’というものを感じて弥生は身震いした。
きっと弥生だけだったならば、手も足も出せずにあっという間に殺されていただろう。
身を護る術がないという恐ろしさを身を持って実感した瞬間だった。
「怖い…死にたくない…っ」
弥生の漏れた本音に静かな声が返す。
「君は死なない。僕が責任を持って護る」
「でも何も出来なくてっ」
「じゃあカルトフリーオに戻るかい?王都に居れば騎士が居る。王や貴族を護る為の力がある。あそこは安全で、君は何の不自由もなく過ごせるだろう」
小さな子供へ言い聞かせるようにラシェルが言った。
確かに王都なら安全で、護られながら生活出来る。魔獣に襲われることも、物盗りに襲われることもなく、きっと好きなことをしながら好きなように過ごしていける。
でも弥生はすぐにその考えを打ち消した。そんなことを自分は望んでいない。
「嫌だ」
顔を上げた弥生をラシェルがいつもの無表情で見返してくる。
感情を窺えない眼鏡の奥にある瞳を半ば睨み付ける勢いだった。
「そんなの、絶対嫌です」
「君は旅を続けたいの?」
力強く問いに頷けば、「そう」と静かな相槌が返る。
弥生の背に回っていた腕が外れて二人の間に隙間が空いた。
「それならこの先も戦闘に慣れていかないとね。怖いと思うのは仕方がない。でもその時に混乱したり恐怖で動けなくなったりしていては危険だから、まずは落ち着いて戦況を見られるようになろう」
「…私に出来ますかね」
「僕は出来ると思ってるよ」
ぐす、と鼻をすすりながら弥生は頷いた。
この保護者に出来ると言われると、不思議と本当に出来てしまいそうな気がする。
疲れているだろうし少し休むように言われ、促されるまま弥生はベッドに横になった。ラシェルの肩から降りた火蜥蜴が頬にすり寄ってくる。柔らかな鬣が心地好い。気が昂ぶっていて眠れないかと思ったけれど、その予想に反し、しばらくして落ちるように眠りについた。
* * * * *
弥生が眠りについたのを確認するとラシェルは静かに立ち上がる。
目元が赤く腫れてしまっているのを見て、そっと片手をそこに翳して詠唱を唱えた。ラシェルの手が離れれば弥生の目元は泣いたことなどなかったかのように綺麗さっぱり腫れが引いている。
部屋を見回せばベッド脇の荷物は無事だったものの、テーブルは倒れているし、椅子は揺れのせいか壁際に移動してしまっている。物が少なかったため被害はそれくらいで済んだようだ。
コンコン、と控えめに部屋の扉が叩かれる。
音もなく扉の前へ行ったラシェルが静かにそれを開けた。
そこにいたのはコーネリウスとクライヴだった。
「先ほどのワイアームの報酬です」
渡された小袋の中を確認したら金一枚と銀二枚が入っている。
「少し多いですね」
ワイアームは一匹銀五枚、ラシェルが二匹倒しても金一枚のはずだ。
ラシェルの言葉にコーネリウスとクライヴが苦笑した。
「それで彼女に何か美味しいものでも食べさせてあげてください」
コーネリウスが自身の肩をとんとん、と示してみせる。
それに倣いラシェルが己の肩へ視線を落とせば、服の肩口が少し濡れていた。すぐに弥生の涙の跡だと気付き、短く詠唱を唱えて服を乾かしたラシェルにコーネリウス達が感心する。
「さすが宮仕えだな」
「私もこれほど熟練した魔法士は初めてです」
一口に魔法と言っても簡単な技ではない。使用する者の魔力量だけでなく詠唱の組み立てから展開次第で威力も効果も変わるため、如何に短な詠唱で効果を起こせるかで魔法士の技量が分かる。
少なくともコーネリウスとクライヴはラシェルほど技量の高い魔法士は見たことがなかった。
「このくらいしか僕は取り得がないだけです」
しかしラシェルは謙遜ではなく本気でそう言った。
事実、本人が出来ることで最も得意なことが魔法だった。
「そうですか。ところで彼女は?」
ラシェルの本心だと感じ取ったコーネリウスはそれ以上言及しなかった。
問われ、チラとベッドの方へ視線を移してから首を振る。
「疲れてしまったようで今は眠っています」
「それは残念ですね。良ければ皆でお茶でもと思ったのですが」
「彼女が起きてからでも構いませんか?」
「ええ、勿論」
それからコーネリウスとクライヴは自身の部屋の番号を告げて去って行った。
扉を閉め、ラシェルは弥生の眠るベッドへもう一度視線を向ける。静かに響く寝息から、まだしばらくは起きないだろうと見当をつけて倒れてしまっていたテーブルを元に戻す。落ちた本を拾い上げて軽く払い、引き寄せた椅子に腰掛けて頁を捲くる。
本の内容を読みながらもラシェルは別のことを考えていた。
何故自分は先ほど彼女を試すようなことを聞いたのだろうか。
好奇心か、はたまた別の何かか、何れにせよ彼女が旅を止めたいと言えばすぐにでもカルトフリーオへ帰ったかもしれない。自分で聞いておいて思うことではないが、そうなったら恐らく自分は彼女との旅が終えてしまうことを多少残念に感じるだろう。
言った通り彼女の言動を見ていると何時も目新しいことを発見する。
異なる世界で生きてきた彼女の独特な思想は大変興味深くて面白い。
だから、出来るならば彼女とはもうしばらく旅をしながら観察を続けたいものだ。
頁を捲くりながらラシェルは何となく肩に触れた。もう消したはずの涙の跡がまだそこに残っているような気がして、これは不思議な感覚だと首を傾げて二度ほど肩を擦る。
視線を上げればベッドの下段には小さな膨らみがゆっくり上下している。
思えば他人とこうも長く共に過ごすのは久しぶりであった。
一人で居ることの方が気楽ではあるが、彼女と過ごしていると時間の流れが早く感じる。
弥生が眠りにつく度にラシェルは同じことを考える。
(ああ、時間の流れが遅い)
最近はその時間の長さにうんざりすることが増えた。
本を読んでも以前のように時間を忘れることがなくなり、遅くても夜が更ける頃には何となく読書に飽きてベッドに横になるようになった。良いことと言えばそうなのだが、どこか釈然としない気分もする。
ふと思い出した様子でラシェルは弥生へ手を向けた。詠唱を口にする。ピキパキと音を立てて防御魔法の膜が浮かび上がり、戦闘で受けた破損が修復されて元通りになる。それを確認してまた本へ視線を落とす。
それから半刻ほど、弥生が目覚めるまでラシェルは読書をして過ごしていた。