翌朝、弥生は微かな物音で目を覚ました。
窓の外はようやく日が昇ったのかまだ薄明るい程度である。
重たい瞼を擦りながら視線を室内へ戻せば、既に起きていたラシェルがテーブルの脇で丁度膝の屈伸をしているところだった。立って、膝を曲げて、立って、膝を曲げてを繰り返す。
「おはよう」
声をかけつつ体操を続ける保護者に弥生はぽかんとした。
その動きはとても最近やった覚えがあるものだ。
「一応聞きますけど、何してるんですか?」
「体操。健康のために毎日する人もいるって言ってたでしょ。それが事実なのか試そうと思う」
「…まさかこれから毎日やるつもりで?」
「うん」
一つ頷いて次の動きをするラシェルは真面目な顔だった。
別に何が問題ということもないのだが、弥生は教えるべきじゃなかったかなと後悔した。
昨日教えた動きをきちんと一巡して保護者は少し乱れた服を整え、二人で顔を洗いに宿の井戸場へ行き、食堂がまだ開いていないのを確認すると部屋へ戻った。
暇を持て余した弥生にラシェルが思い出した様子で鞄を漁る。
「そうだ、手紙でも書いたらどう?」
差し出された封筒と便箋を弥生は受け取った。
「睦月に書こうかな」
「僕も陛下へ近況報告に書くから一緒に送ろう」
そういうことで、朝食までの時間に二人は手紙を書くことになった。
弥生はこちらの世界の言葉で四苦八苦しながら馬車の旅のこと、船のこと、エステルノの王城で入城を拒否されたこと、ワイバーンに乗って見た景色などを綴る。難しい言い回しはまだ全く出来ないのでかなり大変だった。誤字がないかラシェルに読んでもらった分には大丈夫だったが、一言「子供の手紙みたいだね」と言われたので弥生は少しだけ肩を落とした。多分文法が怪しい手紙になっているのだろう。
それを封筒に入れて封を閉じ、ラシェルの手紙と一緒に紐で括る。
一階の食堂へ行きながら受付で手紙を出してもらうよう頼むことが出来た。
到着するのは一週間弱くらい後らしい。
食堂で朝食を済ませ、荷物を纏めて一度二人は外へ出た。
朝だからか町はまだあまり賑わっていないものの、殆どの店はやっていて、ラシェルと弥生はそれらを見て回りながら正午まで時間を潰す。食べ物以外にも装飾品や服などを売っている店も多くあった。
そういえば九島に来てから上着を着ることがない。春から初夏くらいの過ごしやすい陽気だ。
「パシオンってどれくらい暑いんですか?」
ふと並んでいる服を見て、沸いた疑問を隣へ投げかける。
黙って服を眺める弥生を見ていたラシェルが思い出すように緩く首を傾けた。
「立ってるだけで少し汗を掻くくらいかな」
「私暑いのってちょっと苦手です」
「うん、僕も」
「カルトフリーオは寒いから余計そう感じるかもしれませんね」
服屋を離れて二人でのんびり船着場へ向かう。
正午にはまだ早いけれど、カルトフリーオからエステルノへ向かう時と同じく身分証の確認があるので早めに行って困ることもないだろう。上着を括り付けた鞄を持ち直しながら歩いていれば、パシオンへ向かうのか弥生達以外にも鞄を手に歩いている人々がちらほら目に付いた。やはり商人や傭兵などが多い。
船着場へ到着すると既に長い列が出来ていた。その最後尾に並び、やはり兵士のような格好をした人が手にした確証鏡で一人一人確認していく。弥生とラシェルも勿論そのうちの一人である。
確認が済んでやっと船に乗り込んだ。大きさは前回とあまり変わらない。
ラシェルは入り口で人数を告げ、部屋の番号を割り当てられると船内図を確認した。
「こっちだよ」
歩き出した保護者の後を追って弥生も廊下を進む。
出入り口からそう離れていない扉をラシェルが開けた。その後ろからヒョイと中を覗き見れば、前回より狭い室内にベッドとテーブルセットが何とか押し込まれている部屋だった。
相変わらずベッドは保護者より幾分短くて、眠りづらいだろうと思いつつも、弥生はラシェルが眠っている姿を見たことがない。大抵読み書きの勉強をする弥生が夜更かしをする前に寝るよう言われて先に休み、朝起きた時には本を読んでいるか荷物を整理しているかである。本当に休んでいるか少し疑問だった。
荷物をベッド脇に置いた二人は椅子に腰掛ける。
「そういえばパシオンの遺跡っていくつあるんですか?」
弥生の疑問にラシェルが僅かに宙を見上げた。
「九つだったと思うけど」
「ちなみに行った経験は?」
会話に集中するためかラシェルは本をテーブルに置いた。
‘魔法における****の効果と存在’という題名で読めない字が混じっている。
手紙の件も踏まえて、もっと字について勉強しなければならないようだ。
「全部じゃないけれど幾つかは回ったよ。水底の町と大樹の腐書院(ふしょいん)は特に美しかった」
「水底の町は何となくイメージがつきますけど…」
「ああ、腐書院は大きな樹の中にある書院だよ。溜まった水に沈んだ本棚が多くて読めない本ばかりで、樹自体も少しずつ腐っているからそう名付けられたらしい。あと数百年経てばあそこも朽ちて無くなってしまうんだろうね」
珍しくどこか残念そうな色を滲ませた声でラシェルが軽く息を吐いた。
この保護者がそこまで言うならかなり美しい遺跡なのだろう。
「遺跡を保存したり保護したりしないんですか?」
「しないね。魔法を使えば可能だが永遠に変わらないものほどつまらないものはない。他の人々がどう考えているかは分からないけれど、僕は自然に任せておくのが一番だと思ってる」
「それはそれで何だか寂しいような、勿体ないような気もしますね」
「そう?」
不思議そうに小首を傾げられる。その黄茶色の頭上に火蜥蜴がひょこりと現れた。
この火蜥蜴もラシェルや他の人々には見えないのかと思うと一抹の寂しさが胸に滲む。
昔に生きた人々が造り上げた遺跡や歴史も、いつかは消えてしまうのだろうが、それでも弥生は残せるならば可能な限り残したいと思う。でもラシェルの言いたいことも分かる気がした。永い時を過ごした遺跡には独特の時間が流れていて、その空気すら尊いと感じることもある。
手を伸ばしてラシェルの頭上にいる火蜥蜴を招くとぺたぺた手の平へ乗ってきた。柔らかな鬣をゆっくり指先で撫でれば気持ち良さそうに円らな瞳を細め、ぺろりと舌を出す。
見えていないだろうに保護者はジッと弥生の手元を注視している。
「今、何を考えてる?」
まるで天気でも聞くようにラシェルが問うてくる。
弥生は一度瞬きをし、目の前にいる保護者を見返した。
「どうして言葉はこんなに不自由なのだろう、と考えていました」
「不自由?」
「自分の気持ちを相手に伝えるには言葉は足りないんです。今私が感じた寂しいも、ラシェルの感じる寂しいや他の誰かの思う寂しいと全く同じわけではなくて、でもそれを表現するための言葉が分からない」
「僕は僕という個であり、君は君という個である限り感情の共有は難しいだろうね」
納得したのかラシェルが数度頷く。
それに弥生も頷き返す。
「ええ。だけど反面、その言葉の足りなさを素晴らしいとも思います」
「それはまた不思議だ。足りないのにそれを肯定するのかい?」
「足りないからこそ他のもので補おうとしますよね。例えば親しい相手へ親愛を示すために抱擁するように、家族や友人へ愛情を示すために笑いかけるように、はたまた絵描きが自分の気持ちを表すために絵を描くように。足りない言葉を補おうとするその心が私は好きなのかもしれません」
とんとん、とラシェルがテーブルの表面を指先で叩く。
それが数回続いた後に、うんと考えた纏まった様子で口を開いた。
「そういう物の考え方は初めてだ。欠けていることを是として捉え、補う行為そのものに意味を見出す。君のその言葉でいくと完璧でないものの方が好ましいということになる」
「……変ですか?」
「さあ、僕にはその判断がつかない。でも君と話をする度にとても新鮮な心持ちになる。初めて読む本の頁を捲くる時に似た、淡い期待と少しの興奮が入り混じった何とも言えない楽しさがあるよ」
「全然そういう風には見えませんけど」
思わず笑いが込み上げてきた。
だって今までしてきた会話は全てが淡々としたものだった。
それなのに、実は期待だの興奮だのがあっただなんて信じられないし、ついでに言えばそういった気持ちを明け透けに口に出来るところは凄い。弥生が笑ったことで場の雰囲気が僅かだが和らいだ。
話が一区切りしたからか、ラシェルが立ち上がる。
「昼食にしようか」
差し出された手を掴んで弥生も立ち上がる。
「はい、空腹は人を後ろ向きさせますから」
「そうだね、美味しいものを食べて前向きになろう」
ラシェルが部屋の鍵を手に廊下へ出る。弥生もそれを追った。
少し薄汚れた白い壁と木の床板が広がる廊下を二人は食堂へ向かう。
正午を少し過ぎたばかりで食堂は随分混雑していたが、二人は何とか席につくことが出来、置かれていたメニュー表を覗き込む。エステルノは魚介類が豊富だからかメニューも肉よりそちらの割合が高い。
「この魚の煮付けにしようかな」
エステルノで食べた焼き魚も魚介スープも美味しかったので、弥生はメニューの一つを指差した。
すると、唐突に後ろから声が降ってくる。
「それかなりデケェけど嬢ちゃん食えんのか?」
「えっ?」
慌てて振り返れば見覚えのある中年男性が立っていた。クライヴである。
相席しても良いか訪ねられてラシェルと弥生が頷けば、すぐに振り返って食堂の出入り口へ手を振った。その先にはコーネリウスがおり、手を振るクライヴと、椅子に座っている弥生達を見て近寄ってくる。
空いている席に腰掛けて二人が一息ついたところで弥生は話を戻した。
「これってそんなに大きいんですか?」
「ああ、これくらい」
クライヴが両手の平を広げて横に並べて見せる。大柄な男の両手ほどの大きさと言えば結構なもので、そんなに大きいんじゃあ食べ切れないなと弥生は眉を顰めた。横にいたラシェルが口を挟む。
「残っても僕が食べるから頼んでいいよ」
弥生はすぐにラシェルが大食漢であることを思い出した。
だが保護者に食べ残しを渡すことに抵抗も感じるし、自分のせいでラシェルが食べたいものを食べられなくなっては申し訳ない。隣を見上げて聞き返す。
「でもラシェルも何か頼むんですよね?」
「うん、それと同じ魚の蒸し焼き」
弥生が見ていたメニューのすぐ真下にある文字を指差した。
先ほどのクライヴの話とラシェルの腹具合をつい考えてしまう。
「食べ切れます?」
「問題ないよ」
平然と返されて弥生は考えた。そして魚の煮付けの誘惑に負けた。
「じゃあ、これにします」
クライヴとコーネリウスも注文するものを決めたところでウエイトレスを呼ぶ。
それぞれの料理を頼み、それを復唱して確認したウエイトレスが去っていくのを見送った。
「それにしてもお二人もこの船に乗っていたとは奇遇ですね」
我々と同じということは観光はしなかったのですか?
やって来た飲み物で喉を潤し、コーネリウスが言う。
それに弥生とラシェルは同時に頷いた。
「予定が無くなって次の国へ行くことにしました」
ラシェルが端的に説明した。
それから眼鏡越しに目の前にいる二人を見遣る。
「御二人は帰郷されるところですか?」
保護者の問いにクライヴとコーネリウスが驚いた表情をした。
「何でそう思ったんだ?」
どことなく硬い声音でクライヴが問う。
それにラシェルは何てことない様子で言った。
「此方の方は父君によく似ていらっしゃる」
「どこかで父と御会いしたことが?」
「こう見えて王城に仕えていますので」
「まさかその歳で魔法学者に?」
「ええ」
コーネリウスとラシェルのやり取りに弥生だけが取り残されていた。
クライヴは合点がいった様子で緊張を解いている。
三人の顔を順繰りに見た後、弥生は首を傾げてラシェルを見上げたが答えはなかった。
けれどもやや張り詰めていたテーブルの空気が和らぎ、それを待っていたかのように料理が運ばれてきたことでその話題についてはそれ以上誰も触れず、弥生も聞くのを断念する。
代わりとばかりに弥生は飲み物を一口飲んでから気を取り直して声をかけた。
「パシオンは年中暑いと聞きましたけど、昼夜も気温差とかはあるんですか?」
弥生の問いにクライヴとコーネリウスが首を振った。
「日が出ているかで多少違うかもしれませんが、一年を通してずっと暑いですよ。お陰で暑さにやられて倒れる者も少なくないです」
「特に正午辺りは日が強いからアンタらも気を付けた方がいいぜ」
先ほどの空気を振り払うように二人が努めて明るい声音で言う。
気持ちぎくしゃくとした感じはあったものの、食事は和やかな雰囲気のまま終わった。
ちなみに魚の煮付けは言われた通りかなりの大きさがあり、弥生は食べ切ることが出来ず、それでも半分までは健闘し、残りは保護者の腹に収まった。味自体は大変美味だった。