王城に入れない以上することはない。
弥生とラシェルは早々に宿を引き払うと飛竜屋へ向かった。
二島(にのしま)へ行くことを告げれば昨日と同じワイバーンを割り当てられた。向こうもそれを覚えていたのか弥生が手を伸ばせば、甘えるように顔をすり寄せてくる。図体は大きいが仕草は可愛かった。
「君は景色でも楽しんでいると良いよ」
ラシェルの言葉に弥生は一つ頷いき、前日同様その体に腕を回してしがみ付く。
保護者はきちんとそれを確認してからワイバーンを飛び立たせた。
弱まった風に弥生が目を開ければ昨日見た景色が広がっている。ただ昨日は王都の上空とその周辺を少しだけだったが、今日は隣の島まで行くので違った景色も見られるだろう。風の大半は目の前にいる長身によって防がれていて景色を楽しむ余裕がある。
緩やかに下降と上昇を繰り返しながら王都からワイバーンは離れて行く。
川や湖、森の広がる光景が途絶え、陸地がなくなると突然不安になった。
上下左右全てが空というのは思っていた以上に怖い。地面がないので、どこまでも落下してしまいそうな、吸い込まれてしまいそうな感じが何とも言えない恐怖感を煽る。
ついつい保護者にしがみ付けば、少しだけワイバーンの飛ぶ速度が速まった。
長い黄茶の髪に顔を埋めていると鼻先をぺろりと何かが触れる。目を開ければ柔らかな色合いの髪に半ば同化するように火蜥蜴が隠れていて、顔だけ出してこちらを覗き込んでいる。ぺろり、また鼻先を細い舌が舐めて、こてんと首を傾げて見せる。
「ありがと、大丈夫だよ」
心配された気がして、囁けば火蜥蜴が弥生の肩へ移動した。
ふわふわの鬣が風によってユラユラと揺れているが、落ちる心配はなさそうだった。
時間にして五分あるかないかの間、ワイバーンは空を飛び、やがてふっと視界に森が広がる。二島に来たらしい。飛んでいた速度が緩まってようやく弥生は足元を少しだけ覗いた。地面にホッと胸を撫で下ろす。
二島は一島よりも小さいのか島の上空を一度ゆっくり旋回する。
少し離れて更に小さな小島があった。
「降りるかい?」
いつもより少し張り上げた声の問いに弥生は少し考えて返す。
「いえ、大丈夫ですっ」
「分かった、特になければこのまま九島まで行くよ」
「はいっ」
頷けば、ふわりとワイバーンが上昇し、あっという間に二島が小さくなる。
その傍にある離れ小島のような場所へ向かって飛んでいく。こちらもぐるりと一周したが、二島の三分の一以下の大きさで人が住んでいる様子はなく、森と湖があるだけの島だった。
そんな風に島を移動する度にラシェルはその島の上空を一周して弥生へ見せた。
四島ではあまり気付かなかったが、五島へ来ると眼下の色味が一変する。それまで深い緑一色だった木々にぽつぽつと明るい色が増えていき、島の端へ到達する頃には柔らかな黄茶や赤色が大半を占めた。次の六島は三島同様に小さいが島全体が色付き、七島の端へ行くと今度は逆にぽつぽつと緑が増え、八島に至ると鮮やかな緑が戻ってくる。まるで一年をあっという間に見てきたような気分になった。
「……日本みたい」
呟いた言葉をラシェルが拾う。
「君の国もこんな感じなの?」
「正確に言えば違いますけど、一年で季節が巡ってこんな風に自然が変化していきますっ。春夏秋冬、四つの季節が順に回ってすごく季節感のある国ですよっ」
「じゃあきっと君の国は美しいんだろうね」
エステルノは六ヶ国の中でも最も景観が美しい国なのだと保護者が言う。
一島から九島まで、一年をあっという間に過ごすことが出来たならばこんな景色なのだろうと思える、そんな景色の国だ。島国というのも故郷を思い出せる要因の一つかもしれない。
九島の上空を旋回して町に到着する頃には日が大分傾いていた。
景色を見ることに集中していたが、結構な時間を上空で過ごしたために弥生の手は少しかじかんでいた。
一島の飛竜屋と似た場所にラシェルがワイバーンを降下させる。少し開けた所の傍には馬屋があり、そこに居たワイバーン達がキイキイともギイギイとも聞こえる声で鳴き出すと、建物から男性がやって来る。
ワイバーンから降りたラシェルが弥生に手を貸す傍ら、男性はワイバーンの足首にかけられた輪を見て「長旅お疲れ様です」と言った。聞くと足輪の色で島ごとに分けられているのだとか。このワイバーンは今日一日此処で休み、明日の朝放せば自然と元の店へ帰るらしい。
ラシェルがワイバーンを休ませる分の支払いをしながら問う。
「近くに良い宿はありますか」
男性は弥生をチラと見た後に言う。
「少し値は張るけれど前の通りを東に行った先の赤い屋根の宿が良いと思いますよ。そこは傭兵の人達も使いますから下手な物盗りは寄り付きません。まあ、多少の荒くれ者は居るかもしれませんが」
ラシェルは少し逡巡して、一つ頷いた。
今日の宿はそこに決めたようだ。
「そこにしようと思います」
「では受付でウチの紹介だと言ってください、少しばかり安くなりますよ」
にこりと笑った男性にラシェルはまた頷き返した。
飛竜屋から二人で出て、言われた通りに前の道を東へ向かう。
赤い屋根の宿はすぐに見つかった。あまり離れていなかったのもあるが、他の店や家よりもやや大きくて頑丈そうな造りだったので目立っていた。確かに他の宿屋よりも値が張ってそうな雰囲気もする。
出入り口の扉を開けて中へ入れば受付に若い女性が立っていた。
「お泊りでしょうか?」
愛想の良い笑顔にラシェルは相変わらずの無表情で頷いた。
「西にある飛竜屋で紹介を受けて来ました。二人で一部屋、一泊、夕食と朝食付きで」
「三銀と十五銅ですが、紹介で食事代は無料ですので三銀となりますが宜しいでしょうか?」
弥生は内心で驚いた。一島で泊まった宿は一銀と五銅だったので三倍である。
朝食代が浮いたとは言えど安くはない値段にラシェルは迷う事無く頷いた。保護者が泊まると言うならば否やはないものの、目の前で鍵の受け渡しを見ながら微妙な心持ちになる。
受付嬢に指示された二階の手前から二つ目の部屋に行くと六畳ほどの広さだった。ベッド二つにテーブルセット、壁際にランプの置かれた小さな机が一つ。どれも昨日の宿や船内のものよりも綺麗で頑丈そうだ。
旅の荷物をベッド脇へ降ろしながらラシェルに声をかける。
「昨日の宿の三倍もありましたけど…」
弥生が言葉を濁したのでラシェルが顔を上げた。
その手には一島で購入した本が持たれている。
「王都がある一島は治安が良いから安いんだ。逆に王都から離れた町は治安が悪い場所も少なくない。だから多少高くても住民が勧める安全な宿に泊まった方がいい。これはどの国でもあることだから覚えておくと良いよ」
「ちなみに宿代の相場は?」
「王都の近い街だと二人一泊で一銀くらい、離れた町では三銀ちょっとかな。四銀を超えると割高で、五銀以上はぼったくり。ああでも貴族や王族が泊まる宿は最低でも一人一泊で一金からだね」
「じゃあここは普通なんですね」
治安などで宿の相場も違うのか、と弥生は改めて異世界の常識を知った。
でも元の世界で考えてみれば二人一泊で四千円から五千円は安い。王都より離れても一万二千円から一万五千円ならば、そう値段が張っているわけでもなさそうだ。換算すると安全面を補えるのならば良心的とも言える価格かもしれない。
さっそく椅子に座って本を読み始めるラシェルを余所に鞄からノートの本を引っ張り出してメモを取る。金銭についてのページを探し出して、そこに宿代と理由を書き、自分の考察も少しだけ加えておく。
それを仕舞い、ブーツを脱ごうとしたが、かじかんだ指のせいで上手く紐が解けない。
手を擦り合わせてみても温まりそうにないので体を動かして血の巡りを良くさせる。
やるのは勿論、誰もが知っているあの夏休み朝にお馴染みの体操である。
ぐっ、ぐっ、と上半身を左右に捻っていればラシェルが顔を上げた。本を読みかけのままジッと眼鏡越しに観察してくるが、もうそれも慣れたものだ。構わず今度は万歳した両手ごと上半身を上下にぐるりと回す。右回し、左回し、右回し、左回し――……。
「それは何の儀式?」
足を肩幅に広げ、両手を肩につけ、両手を万歳し、気をつけに戻りながら足を閉じる。
この動作を繰り返す弥生をラシェルは興味深げに眺めている。
「体操と言って色んな筋肉を動かして体を解す動きですよ」
「タイソウ」
「はい、体を操ると書いて体操。指先が冷たくなっていたので、これで血行が良くなって温まります。運動の前によくやりますね。私の国では多分誰もが知ってる動きです」
「それ面白いね、教えて」
ラシェルが本を閉じると椅子から立ち上がる。
まさか教えることになるとは思わなかったので弥生は「えっ?」と思わず動きを止めた。
テーブルと椅子を退かして保護者は弥生の向かいに立ち、こちらを見下ろしている。冗談ではないことを理解し、断る理由もなく、弥生は体操の動きを最初からゆっくり繰り返す。
「まずは深呼吸です。両手を広げて、吸って、吐いてー」
そうして一つ一つの動作を教えながら本当に最後まで二人で向き合いながら体操をした。
終えた後、ラシェルは何か納得した様子で数度頷いていたが弥生は何とも言えない気持ちだった。別段教えては不味いことではないはずなのに、何だか教えてはいけないことを、教えては不味い相手に喋ってしまった時のようなバツの悪ささえ感じてしまう。
その理由を翌朝知ることになるのだが、今の弥生はまだ分かっていなかった。
「確かに体が少し温かい」
自分の両手を開いたり閉じたりしながらラシェルがそれを見下ろしている。
「健康を保つために毎日やってる人も多いんですよ」
「へえ」
感心した様子で保護者が首を左右に動かした。ぽきぱき、音が鳴る。
その音に合わせて、薄暗くなった部屋に明かりがふわっと灯った。見れば机の上に置かれたランプの中にいつの間にか火蜥蜴が移動しており、のんびり火中で舌を出し入れしている。ラシェルは驚かなかった。
「日も落ちたし、夕食を食べに一旦降りようか」
「そうですね」
体操から話題が逸れて少しホッとする。
二人で廊下に出て、扉を施錠してから一階へ降りる。受付の脇には食堂があって、宿泊客はそこで食事が出来るようになっていた。弥生達以外にも数名食事をしている者達がいる。
食堂のいわゆるカウンター席に並んで座った二人に厨房にいた女性が振り返る。
「いらっしゃい!」
三十代そこらの綺麗な人だった。その後ろには同じ年頃の男性もいる。
何となく夫婦なのだろうなと弥生は見当がついた。
二島の宿でもそうだが、宿屋での食事は献立が決まっているらしく、注文するとすれば飲み物くらいのものである。あとは酒の肴だろう。しばし待っていると出来上がった料理が運ばれて来た。
表面がカリッとした丸パンの入った籠に野菜と魚の切り身が入った具沢山のスープ、葉モノのサラダにはプチトマトらしき野菜が彩りを添えている。おかわりは一回まで無料、二回目以降は別料金と女性が教えてくれた。
いつものように一度手を合わせて心の中で食事の挨拶をしてスープを一口含む。
「美味しいですね」
柔らかな琥珀色のスープは魚介類の香りがした。
隣で魚の切り身を一口食べたラシェルも頷く。
「そうだね」
でもその表情に変化はない。
慣れたとは言えど、弥生は聞き返さずにはいられなかった。
「本当にそう思ってます?」
「うん、僕は動物の肉よりも魚の方が好きだよ」
熱いスープから、また魚の切り身を口にしている。
しかしながら弥生は別のことに驚いた。
「えっ、好き嫌いあるんですか?」
こう言っては失礼かもしれないが、この保護者に好き嫌いなどないと思っていた。
何を口にしても表情は変わらない上に聞かない限り感想も口にしないので、食事そのものに対して興味がないのではないかとすら感じているぐらいだった。
「嫌いなものはないけど、好みくらいはあるよ」
「へえ、じゃあお肉と野菜ならどっちが好きですか?」
「肉」
即答だった。言われてみれば、いつも肉の入っているものを食べている気がする。
そんな風にお互いの好き嫌いを話しながら食事を続けていく。
途中、ラシェルは一度スープをおかわりしていた。本当に美味しいと思っていたようだ。
夕食の後、部屋に戻り明日の予定を話し合った。
正午頃に次の国パシオンへの船がこの町から出るそうなので、それに乗ることになった。
パシオン国は六ヶ国の中で最も暑くて遺跡などが多い国だ。王都までの道のりは船で三日、そこからまた馬車で四日、合わせて一週間ほどの予定らしい。王都までの道では遺跡にも立ち寄るそうなので弥生はそれが少し楽しみだった。
「遺跡を見て回る時間、ありますかね?」
「どうだろう。君は遺跡が好きなの?」
「はい、古い歴史の名残とか建造物とか大好きです。ラシェルは興味なしですか?」
「いや、僕もそういうものは好きだよ」
観光として少しでも見れるといいね。
ラシェルの言葉に弥生は大きく頷いた。