これはわたしの見立てだがBグループの検体は浮浪者ではないだろうか。
一応体は綺麗に拭われているけれど年老いた人間独特の加齢臭に混じって別の臭いも微かにしていた。
それは時折街中で見かける浮浪者達から漂ってくる臭いによく似ている。
骨と皮だけしかない老人の容姿も、年齢だけに関わらず、十分な食べ物がなかったからだろう。
もしかしたら外見よりも実年齢は若かったのかもしれない。しかし痩せて皺の多い体のせいで正確な年齢を知ることは無理そうだ。
グループの院生達もそう思っていたようで、一瞬見えたレポート用らしき洋紙の推定年齢の欄は空白のままである。
黙って眺めていれば、何やら院生がああだこうだと話し合い始めた。
「何か強い衝撃でも加わったのかな?」
「いや、それなら外傷が残るだろ?」
「うん。外傷が無いのに人体の内側が壊れるなんておかしい。」
「だけどこの検体はそうなってる。」
難しい顔で院生達は身体の前面を開かれた検体を見下ろしていた。
その後ろからわたしも覗き見る。
と、枯木みたいな検体の内臓は他の検体に比べて少し色合いが悪かった。鬱血だろうか?
それに他のグループのものと比べて、Bグループの解剖台に敷かれた白いシーツは血で染まっている。
人は死亡すると血が固まる。けれどもこの検体はあまり血液が凝固していないらしい。
……なんだっけ。こういう症状が現れる死因が確かあったはずなんだけど。
首を傾げている間に院生達は時間が惜しいと会話を一旦切り上げて解剖を再開する。
その不健康そうな色合いの臓器を検体から取り出し、一つずつトレイに移し、それは傍にある別の台へ並べられていく。
これらも数時間、あるいは数日前には生きて動いていたはずだ。けれども今はもう死んで肉の塊と化してしまった。
神や仏を信じている訳ではないけれど魂のなくなった人の体というのは、人形と同じく人の形をした無機物と同じだ。
もう、それは人間ではない。
何にせよ院生達が解剖している手前、わたしが検体に触れることは出来ないだろう。
首から上もきちんと検分出来れば何か分かることがあるのかもしれないが、死者の尊厳を守るために検体の顔を見ることは叶わない。多分、顔を見れるのは教授だけだ。
人の死因は様々あり、それらを特定する上で体だけでなく顔の検分も必要不可欠なのだ。
どうしたものか。解剖だけに関するならば何ら問題はなさそうだし、カルクさんに怪しい所はなかったと伝えてしまえば今回の仕事は終わるだろう。
でも、それはそれで納得いかないような気がする。
カルクさんは医者の卵。その彼が何か検体に違和感を覚えたのなら、それは検体自身に不自然さがあったか彼の知識がまだ足りていないかだ。
事件の有無をハッキリさせるには、やっぱりどうにかして検体の顔を拝むしかなさそうだった。
小休止を挟みつつ数時間ほどかけて解剖は行われた。
まるで人形を分解するかの如く検体は部位や臓器ごとにより分けられ、後半ではもはや人の形を成してはいなかった。
バラバラになった検体を更に検分し、院生達は手元の洋紙に書き込む。
Aグループが最初に解剖を終え、CグループとBグループはかなり時間をかけたものの同じくらいに終えた。
解剖中にグループ内での揉め事がなかったのは、それぞれ割り振られた院生達の性格などが似ているからだろう。
Aグループは積極的、Cグループは慎重派、Bグループは多分その間の院生で構成されているんじゃないかと思う。
提出されたレポートを纏めた教授がそれを持って解剖室を出る。
「お疲れ様でした。セナ君、見学した感想をこれから聞かせてもらえるかな?」
「はい、いくつかお聞きしたい事もあるので宜しければ是非。」
わたしは教授の言葉に頷いたけれど解剖室から離れるのは、あまり気乗りしなかった。
何故なら教授が残っていたCグループの院生達へ解剖室の片付けを頼んだのだ。
このままでは前回訪れた時に見たように、検体はひっそり焼却処分されてしまうに違いない。
その前に是非とも検体達の首から上を検分したい。
「では、隣りへ戻ろうか。」
何気なくかけられた声に返事をして教授の後を付いていく。
…さて、今さっきので彼はわたしの正体に気付いてくれたかな?
振り返ることなく解剖室を出て教授の部屋へまたお邪魔する。
レポートをテーブルの端に置き、崩してあった暖炉の薪を丁寧に戻すと古い新聞紙を小さく丸め、マッチを擦ってそれを着火材にして火を熾こした。
ゆっくり、赤々と燃え出した火の上に薬缶(やかん)を上手く吊す。
それを突っ立って眺めていたわたしに気付いた教授は目尻を下げて「ずっと立っていて疲れなかったかい?ソファーに腰掛けて良いんだよ。」と苦笑した。
勧めに甘えてソファーに座ると腰辺りからポキッと小気味よい音が漏れる。
いい感じに凝っているらしい。
教授が背を向けているのを確認しつつ、肩と背中を伸ばしたらパキペキと鳴る。
これは少々年寄り臭いし失礼なので教授に聞かれなくて幸いだった。
体が解れてソファーに少し背を任せて座っていると、教授が向かいのソファーに腰掛ける。
中年から初老辺りの教授には立ちっ放しの解剖は大変だっただろう。
深呼吸のように深い息を吐くと微笑した。
「見学して気付いた事はあったかい?」
「はい。まず班分けについて、それぞれ似た性格の方々で構成されているように見受けられました。子供の検体は馬車との接触による死亡――…これは班員の方の言葉を聞いての見立てです。女性は出産時に胎盤が剥がれ出血多量で亡くなったとも。老人の検体は浮浪者ですね。ある程度身綺麗にしてあっても臭いが残っていました。痩せ過ぎた体付きも栄養失調によるものかと。ただ、この老人の検体は他の検体と違い血液があまり固まっておらず、内臓の色合いも酷い状態でした。」
「良く見ているね。伯爵が君を傍に置く理由も頷ける。…そう、子供は事故死だった。女性も出産時に亡くなってしまったそうだよ。老人については君の明察通り浮浪者らしいのだが、残念ながら死因は分からない。」
そこまで言って教授は立ち上がり、暖炉の薬缶に近寄った。
湯が沸いたのか慣れた手つきで新しいティーカップに紅茶を煎れてくれる。
渡されたそれを教授に倣って一口飲む。