瀬那の言葉にクロードだけでなく、側にいた警察の面々も首を傾げた。
まるで親の仇でも見るかのように暗い瞳が室内にいる者達を睨み付ける。
そこに浮かぶ激情は怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ…おおよその負の感情が詰め込まれているように感じられた。
握り締められた拳は力を込め過ぎているせいで指が白くなってしまっている。
「何が‘通り魔は捕まった’だ。…なら何で今日、死人が出たんだ?なぁ、何でだよ?」
―――‘通り魔’。一月前に瀬那が見てしまった遺体の事件だった。
あれから二週間後に犯人が逮捕されたと新聞で取り立たされていたが、自分に頼まれた事件では無かったため元より大した興味も湧かずに終わったものだとばかり思っていた。
だがしかし、もしも瀬那の言葉からして‘誤認逮捕’という単語が頭を過ぎる。
それと同時にずっと屋敷から抜け出ていた理由にも気付いてしまう。
瀬那は一月前に見てしまった遺体の事件を恐らく調べていたのだ。そうして何かを知り、‘犯人逮捕’に疑念を抱いたのだろう。
「捕まった犯人って左利きだろ?正面から左利きの人間が人を刺したら、普通ナイフが刺さるのは右だ。でも殺された女の人は全員左脇腹から出血してたじゃないか。無差別だなんて言われてるけど全員歳は二十代後半から三十代前半だし、背格好や顔立ちもどこか似てる。殺された人は全員裏で薬の売人やってたって言うのに何で誰もその線は調べなかったんだよ?」
巻くし立てるように言われて驚いた。子供だとばかり思っていた瀬那がたった一人でそこまで調べ上げていたという事実に衝撃を覚えた。
そして何故殺人現場で保護されたのかも何となく予想がつく。
多分、次に被害者になるかもしれない人物に張り付いていたんだろう。
握り締められた腕を掴んでクロードは瀬那の前に立つ。
「何故、誰にも頼らなかった?一人で捕まえるつもりだったのか?」
「っ、言ったさ!あぁ、言ったよ!警察署に行って、調べていたことも話した!!でも聞くどころか相手にもしなかったのはソッチだろ?!」
「なら私に言えば良かっただろう。」
「アンタはわたしを鬱陶しそうにしてたじゃないか!面倒事はごめんだって感じに、ただ説教するばっかりでわたしが何をしてるのか聞こうともしてなかった!!」
掴んでいた腕を振り払われ、半ば叫ぶように吐き出された言葉に何も返せなかった。
勝手に屋敷を抜け出す瀬那を心のどこかで確かに厄介だと思っていたし、何故屋敷を抜け出すのかと考えるよりも許可も得ずに姿を消してしまう事にばかり怒りと苛立ちを感じていた。
息を詰めた音が聞こえたのか瀬那はまた唇を一度噛み締める。
「信じてくれない…話を聞いてくれないヤツらなんか、頼れる訳ないだろ…。」
消えてしまいそうな程に小さな呟きと共に、ぽたりと淡い黄色味を帯びた手の上に雫が落ちた。
俯いた表情は窺えないが留まる事無く落ちて行く雫は瀬那と出会ってから初めて見る涙だった。
唇を強く噛み締めて声もなく泣く姿が痛々しい。
椅子にもたれかかり、項垂れるように俯く様子にそれまでのじゃじゃ馬らしさはなく、むしろ迷子の子供のように小さく見える。
いや、まさに瀬那は迷子の子供だった。雨の中、行く宛ても無く自分がどこに居るのかも分かっていなかったのだから。知人も頼れる者もいない見知らぬ土地に放り込まれ、本来なら最初に帰りたいと泣き叫んでいても可笑しくない。
だが瀬那は泣くどころか帰りたいという言葉すら口にしなかった。
一月もの間、誰に頼るでもなく事件を追いかけ、癒されない孤独と不安に独りで耐えていたのだろうか。
自分がその間していた事なんて屋敷を抜け出した瀬那を叱る事と、衣食住を与えてやる事くらいだった。
それで十分だろうと。それだけしてやれば拾った者としての責務は果たしたのだと思い込んでいた。
小さな子供のように読み書きも出来ない、一般常識ですら瀬那は知らないのだと気付いていたはずなのに放置していた。どうせ使用人達が読み書きや常識などは教えるだろう。甘えとも言えるそんな考えのまま、面倒臭いと他人任せにしていたクロードの考えに瀬那は気付いていたのだ。
そしてそれ故に何も言わなかった。
当たり前だ。面倒は御免だとばかりに背を向けてくる人間に助力を乞う者などいない。
見かける度に使用人達に囲まれていた瀬那だったが、思えば何時も傷付いた顔をしていた気がする。
必要な物を与えられ、周囲から同情の手を差し伸べられ、けれどそれらは何一つとして瀬那の意を伴っておらず、空虚な優しさで自分達は雁字搦(がんじがら)めにしてしまっていたのかもしれない。
屋敷を抜け出す暴挙や文句を言う事はしていたものの、物を欲しがったり不平不満を言ったりするような我が侭は拾ってから一度も無かった。
拾われてから今まで、一体どのような思いで日々を過ごしていたのか。
片膝をついて俯く瀬那の顔を見て、更に自分の失態を思い知った。
これまで見た無表情でも、嫌そうな顔でも、苛立ち怒った顔でもない。傷付き、苦しみ、それでも縋る事が出来ずに耐える……そこにあるのは捨てられた子供の顔だった。
「――…すまなかった。」
考えるよりも先に口から出たのはありきたりな謝罪。
涙を拭おうと手を伸ばせば拒絶するように顔を背けられる。
それでもクロードは構わず頬に触れ、幾筋も伝う涙を指で拭ってやった。
「最初に手を差し伸べたのは私だったと言うのに、お前の事を何一つ考えていなかった。理解しようともしていなかった。そんな者を信じる人間などいない…しかし、それすら私は気付かなかった。」
許してくれとは言わない。許して欲しいとは思わない。
「私を信じられないというのなら、信じなくても構わん。だが、全てを拒絶して諦めないでくれ。」
そうする事で最も傷付き疲れていくのは目の前にいる瀬那自身だ。
このまま心を磨り減らしていけば、やがて壊れて消えてしまう。
自らの命の危険すら顧みない程に誰かを救おうとする、切ないまでの優しさを持つ心を失くさないで欲しい。
「今更こんな事を言うのは虫の好過ぎると思うだろうが……少しずつでも良い、私にお前の事を教えてくれ。思っていること、考えていること、どうしたいのかを言ってくれ。そして私を知って欲しい。私の思っていることも、考えていることも、全て話そう。」