翌朝、起きて何時ものように用意された服に着替えて廊下に出ると、丁度執事がこちらへ歩いて来るところだった。
目が合うとニコリと微笑まれたので毎朝変わらずわたしはお辞儀を返す。
どうやら私を迎えに来たらしい。執事は「ホールに行きましょう。」とわたしの背を軽く押した。
ホールに行くと男が玄関脇に立っていた。
わたしの格好を見て「寒くないのか。」と聞いてくるけれど、別段寒くなかったので頷き返す。男はコートを着ていたが、そんなに寒いだろうか?
男について屋敷を出て、拾われた時のように馬車へ乗る。
何か話をするでもなく男は馬車が動き出すと本を読み出しだ。それを眺めているのも気まずかったからカーテンらしきものの隙間から見える街の景色へ視線を移す。初めて目にする昼間の街は、あの雨が降っていた夜とは比べものにならないくらい賑わっている。
一般人の服はお世辞にも綺麗とは言い難い。何度も洗い直して着ているせいか、色が薄かったり擦れていたりと着古している感じがあった。
それに比べたら目の前で優雅に本を読む男の服も、わたしが着ている服も着古した感じはほとんどない。思い起こしてみると使用人達が着ている服もくたびれた感じはなかった。
何となく男へ視線を戻すと、何時の間にか相手もわたしを見ていた。
「もうすぐ着く。」
「…どこに?」
「警察(ヤード)だ。」
「ヤード?」
耳慣れない言葉に聞き返せば、少し変な顔をされた。
そんな顔をされたって分からないものは分からない。
考える仕草をした後に男は「警察は市民が自ら志願して働く国の職務の一つだ。基本的には殺人、窃盗、傷害などの様々な事件を解決するのを主な仕事としている。」と行った。なんだ、ヤードって警察のことか。
確かスコットランドの警察をスコットランドヤードと呼んでいたなと記憶の欠片を引っ張り出す。
「分かったか?」と聞かれ頷く。どこか腑に落ちない顔をされたが気付かないフリをした。
警察に行くということは、わたしは屋敷からそっちに移されるのだろうか。まぁ、こんなただ居るだけの穀潰しなんてさっさと手放したいものだろうし、それが一般的な考えだ。
馬車が停まり目的地に到着する。
目の前に建つ建物が恐らく警察署だと思う。その左隣りにも随分大きな建物が並んでいるが、そちらは人気がなく閑散としていた。
警察署の中へ足を踏み入れるとホールはやはり吹き抜けで、各所に受付のようなものが幾つも設置してある。入ってきた人々は自分の用事に従って決められた受付に向かう。
男は全く人のいない受付に歩き出した。
その受付にはやる気のなさそうな中年の男が一人すわっており、わたし達を見て興味津々な眼差しを隠しもせずに向けてくる。
「用紙を一枚。」
「はいよ。…そちらさんと子でも生まれたのかい?」
「死にたく無ければ、くだらん詮索は止せ。」
男は下卑た揶揄を一刀両断しながら紙を受け取って近くにあったテーブルに腰掛けた。
正面に座ろうとしたのに、有無を言わせず隣りに座らせられる。
それからテーブルに備え付けられていた羽ペンを持ち、男が質問してくるという行動が何度か続いた。生年月日、年齢、性別、教育の有無、家柄など様々な質問があった。
中でも年齢と性別に関してのところで男と一悶着が起きた。
どうやらこの男はわたしを本当に‘少年’だと勘違いしていたらしい。
元の世界でも間違われることがたまにあったけれど、正真正銘わたしは女だ。
年齢の欄では十六、と答えたわたしに疑いの目が向けられものだから思わず隣りに座っていた男の鳩尾に肘鉄をお見舞いしてしまった。
聞いてみたところ「十一、二だと思っていた。」と悪びれもなく言われたので肘鉄をもう一発入れたのは言うまでもない。流石に二発目は避けられてしまったが。
生年月日のところは月だけ答えたので、年齢から逆算したらしく勝手に男が書き込む。
文字が読めないのでわたしは聞かれたことだけ答えることしか出来ない。
教育の有無に関しては「普通」、家柄も「一般人」とだけ言っておいた。
その辺りも上手く書いているようだったが何に使う書類なのかイマイチ分からない。
やっと書き終えた書類を受付に出すと、今度は受付の中へ引っ張り込まれ、やけにフラッシュの強い多分カメラだろうもので写真を撮られた。目がチカチカする。
影の焼き付いてしまった視界のまま戻ると何かが男に手渡される。
「絶対に此れは失くすな。お前の住民書だ。」
何枚かある紙から一枚、渡された少し小さめの洋紙に色々と書き込みがされていた。
住民書…?男を見上げれば丸めた書類で軽く叩かれる。
「拾った以上、私にはお前の世話を最後までする責任がある。どこの者かは知らんが行く当てが無いなら屋敷に好きなだけ居れば良い。」
男はそれだけ言って書類を持ったまま警察署の出入り口へ向かう。
呆けてしまっていたが、名前を呼ばれたので慌ててその背中を追いかけた。
ちょっと冷たい男だと思っていたが、実はそうでもないみたいだ。チラリと前を行く男を見てみたが表情は窺えない。
警察署を出て階段を下りていると不意に隣りの建物の前に馬車が停まった。
他の馬車と違い簡素で、黒塗りで、やや後ろに長い形になっている。左右に扉は無さそうだ。御者台に乗っていた男達と、馬車の後ろに掴まるようにして乗っていた男達が後ろの扉を開けて数人がかりで中から何かを引っ張り出す。
長い板のようなものに載せられた何かは中身を隠すように布がかけられていた。
…なんだ、あれ?
立ち止まって男達が運ぶものを凝視していたからか、また前から名前を呼ばれる。一度正面を向いたものの、やはり気になってしまい視線を戻す。
それを運んでいた男達の何人かが声を上げた。
誰かが躓いたのか、運んでいた男達のバランスが崩れて板の片方が地面に落ちる。
かけられていた布がズレて中身が露わになった。
「っ、!?」
「見るな!」
怒声にも似た男の声がして、視界を塞ぐように手が伸ばされる。
でも、それは遅かった。ハッキリと目に焼き付いた光景が何度も頭の中で繰り返し再生され、それが一体何なのかわたしは理解した。
人の成れの果て――…死体だった。それも普通の死体ではない。
左腹部を真っ赤に染め上げ、苦悶の表情で息絶えた中年の女性は血がほとんど抜けてしまったのか紙のように白い。
男達が慌てて布をかけ直して死体を建物へ運び込む。
…そうか、そこは遺体安置所なんだ。
だから人気がなかったのか。遺体安置所を置くなら警察署の隣りは確かに色々と便利だし効率も良い。
そんな事を頭の片隅で考えながらも、襲って来た吐き気に耐え切れずわたしは意識を手放した。