目の前で使い慣れない洋紙と羽ペンに苦戦しているイルフェスの気配を感じつつクロードは自室の机で読書をしていた。
初日に比べれば手をインクで汚す事も飛び散らせる事も無くなったため苦労は減ったが、時折聞こえてくる唸り声やら羽ペンが洋紙に強く押し当てられる音が気になって仕方が無い。
が、力を込め過ぎだと言った所で直るものでも無いのは既に分かり切っているので指摘する気も起きなかった。
半ば根負けした形で手元に置く事となったイルフェスはセナにとても懐いている。
セナ自身も家族だと言っているので懐いているのも当たり前ではあるが、どうにも姉と弟というより母子のように見えてしまう。
……まぁ、それは二人の様子がという意味合いであって見た目は結局姉と弟にしか見えないのだが。
そんなくだらない事をつらつらと考えていたクロードにイルフェスが話しかける。
「伯爵、ここが分からないです!」
子供特有の元気の良い声に本から顔を上げて洋紙を覗き込む。お世辞にも綺麗とは言いがたいバランスの崩れた文字がいくつも並んでいる。
苦し紛れに何度も書き直された文字があった。
しかし根本的に文字のバランスと書き方が分からなかった様で全く上達していない。
自身のペンを取り出し、インクを付け、サラサラと何も書かれていない場所に文字を書いてやった。
分かりやすいように普段よりもややゆっくりと書いた文字にイルフェスは「ありがとうございます!」と言って早速練習に取り掛かる。
ジッと文字を見ては書き順を思い出すようにゆっくり、丁寧に書き出していく。
それからは特に質問される事も無く読みかけだった本を無事に読み終え、時計へ視線を向ければイルフェスの勉強に付き合い始めてから既に一刻と少しばかり経っていた。
そういえばこの間の事件を解決した礼にシャロンから遊びに来ないかと誘いを受けていた事を思い出す。
何時でも時間のある時に来てくれと手紙には書かれており、セナも弟のキースとは良き友人として付き合っているので偶にはのんびり事件を抜きにして会うのも良いだろう。
それにイルフェスも紹介しなければならない。
飽きる事無く文字の練習に余念のないイルフェスが視線に気が付いたのか顔を上げた。
「? どうしたの?」
「‘どうかしましたか?’だ。」
「はくしゃく、どうかしましたかー?」
言い直させてはみたものの、語尾が延びた問い掛けに気が抜けてしまう。
何でもないと首を振ってから「勉強はそこまでにして、セナを呼んで来てくれ」と頼めば二つ返事で頷いたイルフェスがペンと洋紙を片付けてパタパタと部屋を出て行ってしまった。
屋敷内は走るな、部屋を出て行く時は一礼しろと注意する暇も無い。
軽い溜め息を一つ零してクロードは手に持ったままであった本を半ば放るように机へ置いた。
パタパタと近付いてくる足音にふっと意識が浮上する。
少し重たい瞼を持ち上げると窓から差し込む日差しが机を照らしている。
どうやら読書中に寝てしまったようで開いたままの本に左手を沿え、右腕を枕にしてわたしは机に伏してしまっていた。そのせいで右腕が痺れて痛い。
本に栞を挟んで腕を下ろし、血の巡りを良くするために手を開いたり閉じたりしてみる。ついでに首も左右に曲げてみるとゴキッという鈍い音がした。
指の骨を鳴らしていると関節が太くなってしまうという話は聞いたことがあるけれど、もしあれが事実なら毎日首を鳴らしている人は首が太くなるのだろうか?
無意味な推考をしていると扉がノックされる。随分元気なノック音だ。
聞こえていた足音からしても十中八九イルだろうなと苦笑しつつ椅子から立ち上がって扉を開けた。
予想通り廊下に立っていたイルが満面の笑顔で立っている。
「セナ、伯爵が呼んでるよ!」
「伯爵がですか?今日は特に御予定はないと思いましたが、何かおっしゃられておりませんでしたか?」
「ううん、何も言ってなかったよ」
「そうですか。ではイルは先に伯爵のところへ戻っていてください。わたしもすぐに向かいます。」
頷いて走り出そうとするイルに「廊下は走ってはいけませんよ。」と注意の声をかければ、返事をして歩き出す。本人は早く歩いているつもりなのだろうけれど小走りになってしまっていた。そんな小さな背中を笑いを堪えて見送り、一度部屋の中へ戻る。
鏡で服装などをチェックする。…良かった、服に皺は出来ていない。気持ち乱れているような気がしないでもない髪を櫛で整え、まだ眠気の残る顔を軽く叩いてから部屋を出た。
まだ寒さが残るものの差し込む日差しは暖かい。もうすぐ春が来るのだろう。
春が訪れたら、伯爵の下に拾われて一年経ってしまうのだと思うと不思議な気持ちだ。
感慨深く思いながら伯爵の部屋の扉を叩く。すぐに扉が開いて伯爵……ではなくイルが顔を覗かせ、わたしを見て飛びついてくる。
中から伯爵の「早く入れ」という呆れを含んだ声にイルをくっつけたまま入室した。
「お呼びと伺いましたが、何か御用でしょうか?」
紅茶を嗜む伯爵に問うとブルーグレーの瞳がこちらへ向く。
「シャロンの屋敷へ行く。」
「何か事件でも?」
「いや、そうじゃない。偶には仕事を抜きで遊びに来いと誘われていたんだが、丁度今日は時間も空いているからな。」
「それは嬉しいですね。さっそく支度をして参ります。」
キースとシャロン嬢にイルも紹介しないといけませんね。きっとあの二人ならばイルに良くしてくれるだろう。そう思うと嬉しくて自然と笑顔になってしまう。
伯爵もそれに気付いているのか口元を緩めて微かに笑みを浮かべていた。
イルはよく分かっていないようで、わたしと伯爵を交互に見る。それでも質問せず黙って待っているのは偉い。