「――…馬鹿とは随分な言い草だ。」
聞き慣れた声が室内に響き、それと同時に男の腕が後ろから捻り上げられて包丁が手から落ちる。
カラーン…と乾いた音を立てて地面に落ちたそれを視線で追いかけ、それから薄暗い中でも月のように静かに蝋燭の光りを反射する銀灰色の髪を見た。
男の後ろから腕を掴んで背中へ回している。その細身の体のどこから出るのだと不思議に思うほど、伯爵の力は強い。
目一杯腕を捻っているからか男の顔に初めて苦痛の色が浮かぶ。
「なっ、誰だあんたは…!」
「そこで貴様に拘束されてる女の主人だ。」
「格好付けはいいから早くそいつ縛って、こっち解けっての!」
「口が悪いぞ、セナ。」
男の言葉に律儀に答え、ついでにわたしに口うるさく注意する冷静さはすごいけれど本当に早く解放して欲しい。
伯爵は懐から細い線を取り出すと、それで男の両腕を後ろ手に縛る。
手首だけでなく親指にも通された線はピアノ線だ。解こうとしても千切れないし、下手をすれば親指がなくなってしまう。
この入れ知恵はわたしだけれど伯爵はこれを気に入っているようで教えてからはピアノ線を肌身離さず持っていた。
しっかりピアノ線で男の腕を縛ってから、漸く伯爵が振り返ってわたしを見る。
男が凶器として使用していた包丁でザクザクと遠慮なく両手足の縄を切って行く。
「深追いするなと言っただろう。」
「もーしわけありませんねぇ!わたしだって好きでこんな状態になったわけじゃないし!」
「落ち着け。…興奮すると口調が戻るのはお前の悪い癖だな。」
手足が自由になって起き上がれたかと思えば、首元に残る違和感に迷わず手で触れる。
…首輪?
取ろうとしてみても固く留められたベルトは外れない。
オマケに見えないんだから面倒臭いことこの上ない。
伯爵がわたしの首を見て「鍵がなきゃ外れないぞ。」と教えてくれたが有り難味が全くない!
怒りのままに縛られて動けない男を睨み付ければ少し驚いた顔でわたしを見る。
台から飛び降りて大股に歩み寄って、胸倉を掴んで無理矢理引き上げる。
「この鍵はどこ?!」
「ぇ、あ…。」
「どこだってんだ!答えろこのやろーっ!!」
「セナ、お前の豹変振りに男が茫然としてるように私には見えるんだが。」
「うっさい!知るか!さっさと鍵出せって言ってんだよ!!」
ガクガクと勢いよく男の体を前後に振る。
後ろで「まるでガラの悪いギャングみたいだ。」という声が聞こえたが、今のわたしはそれどころではない。
首輪、なんて犬か猫のような扱いを受けて喜ぶアホがどこにいるってんだ!!
なかなか喋らない男に頭突きでも食らわせてやろうかと息巻いていれば伯爵が後ろからわたしの手を、男の襟から外させた。
そうしてふわりと肩にコートがかけられる。上質なファーの付いたそれは伯爵のものだ。
「とりあえず前を閉めろ。」
「…あ。」
ワイシャツの前が開いたまま中に着ている下着が見えている。
指摘されてやっと気付いたわたしがいそいそとボタンを留めている間、呆れたような溜め息を吐きながら伯爵は視線を逸らしていた。
わたしが全力で頭をシャッフルしてしまった男は少し体をふらつかせながらわたしから離れる。
その目はありえないとでも言うように見開かれていた。
「貴女はなんなんだ…?!女性だと言うのにまるで男だ!」
「あぁ、私も時々性別を間違えて生まれてきたのではと思う。」
「そこ!何犯人と仲良くしてんの!ってか大きなお世話!!」
「セナ、もうすぐ警察が来る。本当に落ち着いた方が良い。首輪なんて屋敷に戻れば外せるじゃないか。」
涼しい顔でそんなことを言う伯爵をわたしは唖然とした顔で見た。
は、外せる?鍵がなくても?
嘘じゃないかと伯爵の顔色を窺ってみてもいつも通りのポーカーフェイス。
なんだ、後ででも外せるなら問題じゃないか。
頭に上っていた血が落ちて、わたしはふっと息を吐き出した。
その様子を見ていた伯爵に落ち着いたかと問われて頷き返し、それから立ち上がる。
「すみません、少々取り乱してしまいました。」
「…少々か?」
「えぇ、少々。それより上が騒がしくなってきましたね。」
「警察だろう。入る時に戸の硝子を割っているところを近隣住民に見られていたから、通報されたお陰で到着も早い。」
硝子を割って侵入したのか、あんたは。
冷静(クール)な外見に似合わず無茶をするというか、いくら非常事態だったとは言え手段を選べと内心で突っ込んでしまう。
わたしのそんな心境を欠片も理解していなさそうな伯爵は、慌ただしい音と大きな声が近付いて来る部屋の出入り口へ視線を向けた。
すぐに薄暗いそこから現れたのは刑事だった。
あのデカイ図体では狭いのか頭上や壁を気にしながら部屋に入ってくる。
「やっぱり伯爵でしたか。住民が泥棒だと騒いでましたよ。」
ぼさぼさの頭を掻きながらやや不満げに言う。
そうして部下へ男の身柄を確保させると、この薄暗い室内から無理矢理連れ出して行った。
「仕方無いだろう。使用人に何かあっては主人の名折れだ。」
「まぁ、そうかもしれませんがねぇ……大丈夫、そうには見えねぇなぁ坊主。」
「坊主ではなく瀬名ですよ、刑事さん。」
伯爵のコートをかけられ、手足に縄で縛られた跡が残るわたしを刑事は器用に眉を片方上げて見る。
刑事の後から来た数人の警察たちもわたしを見て痛ましそうな顔をした。
…そんな顔をされるくらい今のわたしの状況は酷く見えるのだろうか?
自分の体を見下ろして見ていると、伯爵が首にかけられたままの首輪を軽く引っ張った。
そうして「手で絞められた跡がある。」と教えてくれた。
なるほど、首輪の隙間から扼痕(やくこん)が見えてしまっているらしい。
それでは誰もがわたしを見るたびに変な顔をするわけである。
「あー…、そういえば絞められましたね。首。」
「面白い程綺麗に残っているぞ。」
「そのまま綺麗に消えてくれれば良いのですが。」
「そうだな。さて、我々の仕事も済んだ事だ。屋敷に戻るとしよう。」
伯爵はそう言ってわたしを突然抱え上げた。
これにはわたしだけでなく刑事も驚いた顔をする。
靴がないから馬車まではこれで我慢しろ。と平然とした顔で伯爵は歩き出したがわたしは思い切り抵抗した。
だって一応わたしは男として通っているわけだし、第一素足で歩くくらいなんてことはない。
そう言っても伯爵は許してくれず、結局馬車に乗るまでわたしはいわゆる‘お姫様抱っこ’状態で伯爵に運ばれてしまった。
後に新聞にその時の光景を‘被害者女性を救いだした名門貴族!’というような見出し付きで写真ごと載せられたことを知るのは屋敷に戻って三日後の出来事だった。
――――…PRIMO CASO:Uomo geloso―嫉妬深い男― Fin.