斬撃を防がれた子息は目を見開いて驚いた。
まさかアイヴィーが両利きだとは思いもよらなかったのだろう。
既に用済みとなった他人の剣を放り、その一瞬の隙をついて体を相手へ向け、勢いのまま剣を振るおうとした。
しかしアイヴィーの耳が風を切って向かって来る何かの音を聞き取り、半ば反射的に屈み込む。
すると頭上擦れ擦れを何かが通り過ぎて子息の額に直撃した。
鈍い音を立ててぶつかったそれが鞘に納まったままの剣だと気付いて地面へ落ちる前に掴み取る。
学習院に通う者全員が持つ騎士見習い用の剣に外見だけならよく似ているが、持った重みはアイヴィーが普段使っているものの倍近くあり、危うく取り落としそうになった。
鞘付きとは言えど、それなりの速度で飛んできた剣の直撃を受けた子息はその一撃で気を失い背中から地面に倒れた。
もしかしたら自分の身に何が起こったのか理解する間もなかったかもしれない。
それにしたって剣を投げるとはどういった精神をしているのかとアイヴィーは憤慨していた。
騎士にとって剣とは己の盾であり、矛であり、己であり、誇りであり、王族への忠誠の証である。正式な騎士でないにせよ大切に扱わねばならない代物で、他者の剣ならまだしも、己の剣を投げるなど論外だった。
おまけに横槍を入れられ、必要がなかったのに助けられる形にもなってしまった。
騎士道もへったくれもない行いに一言物申してやろうとアイヴィーは睨むように振り返る。
だが開きかけた口から言葉は出て来なかった。
「ハッ、クソ弱ェ。」
目の冴えるような青い髪に猛禽類を思わせる鋭くも美しい金色の瞳。
華美な装飾は一切無いけれど一目で質の良いものだと分かる服。
老若男女誰もが振り返るであろう整った顔は、遠目に何度か見た覚えがある。
「殿下?!」
アイヴィーがその人物を認識するのと同時にどこからか酷く驚いた声が響く。
大国と称される自国の王太子。
それも王位継承権第一位と目されている者が、共も付けずに平然と立っていた。
その場に居た全員が慌てて膝をついて頭を垂れる。
が、王太子自身はまるで周囲など見えていないと言わんばかりに無遠慮な足の運びでアイヴィーに歩み寄り、差し出された己の剣を掴む。
「…お前ら散れ。」
剣を腰に戻した王太子が手を振って自身に膝を折っている貴族の子供達に面倒臭そうに言う。
野良犬を追い払うような扱いを受け、周囲は茫然とした空気に包まれた。
王太子はそんな様子に大きく舌打ちを零す。
「聞こえなかったのか?散れっつってんだろうが。」
やや苛立った通りの良い声は抗うことを許さない色を纏っている。
いち早く我に返ったアイヴィーが下がろうとすると、今度は呆れ気味の声が振ってきた。
「お前は残ってろ。」
「はっ!」
下がりかけた足を戻し、戸惑いを滲ませながら下がっていく他の者達の足音が消えるのを待つ。
やがて周囲に人気がなくなった頃、王太子が唸るように呟いた。
「顔を上げろ。」
面を上げることを許されたアイヴィーは改めて王太子を見上げた。
端整な顔立ちなのに不愉快そうに眉が顰められている。
「立て。」
「殿下、それは…」
例え王太子の許しがあってもアイヴィーには従えない命令だ。
正式な騎士でもないのに王族とこれ程近い距離にいるだけでも本来ありえない。
近衛まで登りつめるくらい剣の腕も地位もある騎士ならば分かるが、下級貴族の、それも見習いでしかないアイヴィーに己と同じ振る舞いをせよと言うのは無理な話である。
「立たねェならお前の一族郎党(いちぞくろうとう)切るぞ。」
「っ、!?」
無茶苦茶だがそれを実行出来る立場にいる王太子の発言に思わず立ち上がってしまった。
真っ青な顔のアイヴィーを見て、何が楽しいのか形の良い唇を歪ませて王太子は笑う。
次の瞬間、目の前に剣の切っ先が向けられていた。
――――…早い。反応する暇もなかった。
「防がねェのか?」
「…恐れながら、見習いと言えど王族へ忠誠を誓った身です。殿下へ刃を向けるなど何故出来ましょうか?」
反応出来ても出来なくとも結局対応は変わらないのだ。
王太子は暫し剣先を向けていたがアイヴィーに剣を抜く気がないことを悟るとつまらなさそうに鞘へ刃を戻す。
内心でそれにホッとしたのも束の間で、今度は名を問われた。
「名は?」
「アイヴィー=クウォークと申します。」
「クウォーク?聞いたことねェな。」
「貴族の中でも私(わたくし)の家は地位が低く、殿下のお耳には届かれないかと…。」
ふぅん、と何を感じているのか判断出来ない返事と共にジッと見つめられて背中に嫌な汗が滲む。
蛇に睨まれた蛙が如く体が硬直する。
記憶が確かならば王太子はアイヴィーより一つ年下のはずだ。なのに今まで感じたことがないほど威圧感を受けのだから、王族というのは本当に己と生まれが違うのだと実感する。
ジロジロと不躾な視線に耐えるアイヴィーの気持ちなど露知らず、王太子は名案を思いついたとばかりに一つ頷いた。
「お前、俺の傍に来い。」
「―――-…は?」
これまたとんでもないことを言われ、今度こそ素で返してしまう。
傍に来るとはつまり近衛騎士になれという意味だ。
言葉を理解するのに少々間を有(ゆう)しているアイヴィーに王太子はもう一度ハッキリと告げる。
「俺の近衛になれ。」
「…理由をお聞きしても?」
「役立たずは要らねェが、お前は鍛えりゃ盾くらいにはなりそうだ。」
確かに王太子の強さは近衛騎士をも凌ぐと聞き及んでいる。
額に剣を受けて今も地面に転がっている貴族の子息では足手まといにしかならないだろう。
それを考えれば盾くらいにはなる、という言葉は褒められている部類なのかもしれない。
「俺に剣を捧げるなら悪いようにはしねェよ。」
下町にたむろしているガラの悪い連中よりも性質の悪い脅しだ。
そしてこの脅しを跳ね除けることは不可能に等しい。
早くしろと急かされ、アイヴィーは拒否することも出来ずに膝を付き、己の剣を鞘ごと腰から抜いて柄を王太子へ差し出した。
「…貴方への生涯変わらぬ忠誠を、この剣と血と、我が名に誓い捧げます。我が身を捧げる赦(ゆる)しを。」
即席だったために簡易的な誓いの言葉と儀式ではあるが、王太子は満足げに目を細め、迷い無く捧げられた剣を鞘から引き抜く。
「赦す。」
剣の刃を横にし、それで左肩に軽く触れられる。戻された剣を王太子から受け取り鞘へ戻す。
立ち上がったアイヴィーにそれまでとは違う屈託のない笑みが向けられた。
「明日から俺が鍛えてやる。容赦しねェから死ぬ気でかかって来いよ。」
それは新しい玩具を得て上機嫌な子供そのものだった。