泉から出てきた人物に誰もが驚いた。
落ちたのは白くて柔らかなウサギのヌイグルミ。
だが出てきたのは、肩口で切り揃えられた黒髪に黒い瞳、やや病的なくらいに青白い肌の少女。
水面からバシャリと顔を出した少女は一度、キョトンとヴェルノを見つめた。
見つめられたヴェルノ自身も思わず息を詰める。
少女が口を開けたが、そこから漏れたのは言葉にならない声だった。
小さな子供のように泣き出す少女に全員が半ば茫然としたまま視線を投げかける。
そうして、その少女に途切れ途切れながらも名前を呼ばれたヴェルノの頭の中に白いウサギのヌイグルミの姿がパッと思い浮かばれ、黄金色の瞳を見開いた。
無意識に問いかけた名前に今度こそハッキリと少女が自分を呼び、声の限りに泣き出した。
ヴェルノはぐっと一度歯を噛み締めると意を決して泉の中に飛び込む。青く輝く水が服に染み込み身体の動きを阻害するが、躊躇わずに少女のもとへ向かう。
他の人間も我に返ったのか真後ろにドボンと何かが落ちる音がした。
チラリと見れば泉に沈む剣が見える。
が、すぐに視線を戻して少女を見ればまだ泣いている。
咽(むせ)ぶように、身を振り絞るように泣く姿にヴェルノは眉を顰めた。
手が届く距離まで近付き細い肩を引き寄せると何の抵抗もなくすっぽりと腕の中へ収まり、しがみ付いてくる。
何度も自分の名を呼ぶ声は確かに聞き慣れた声だった。
抱き締めながら飛び入った場所へ引き返す。途中で投げ入れられた剣を掴むのを忘れない。
「ヴェルノ!」
泉から出ればアイヴィーとユージンが守るようにヴェルノの前を固めた。
それを横目に腕の中でへたり込む少女に声をかける。
「本当に真白か?」
「うぇ、っ…ひっく…ヴェルノさ、んの…ばかっ!」
「…真白ちゃんのようね。」
アイヴィーが呆れ混じりに言った。ヴェルノに馬鹿だなどと言えるのは真白くらいのものなのだ。
問いかけが悪かったのか今だばかばか、と自分を罵倒する少女に笑みが浮かぶ。
首と胴体が千切れて泉へ落ちてしまった時はもう絶望的だったが、まさか人の姿になって戻って来るとは思わなかった。
しっかり首にしがみ付いてくる体を抱え直してヴェルノは立ち上がる。
「テメェ、さっきはよくも真白を蹴り飛ばしやがったな…?」
人一人抱えているのをモノともしない様子で剣を握るヴェルノにルイスは一瞬たじろいだ。
しかしすぐに自身も短剣を構えると足を踏み出す。キン…!と音が響いて、短剣が弾き飛び、壁にぶつかって落ちた。力の差など比べるべくもなかった。
わんわん泣き続ける真白を宥めるように抱え直しながらもルイスに近付く歩は止まらない。
左右から振り下ろされた剣はレイナーとセシルが受け止め、ヴェルノ達から引き離す。
「クソッ…!」
焦って悪態を吐いたルイスにヴェルノが反応する。
「それは俺のセリフだ糞野郎が。落とし前はキッチリつけさせてやるよ。」
そしてルイスが言い返す前に、事は終わっていた。
ヴェルノの持つ剣がルイスの右肩へ深々と突き刺さり、その体を壁へ縫い止める。
ただでさえ真白から受けた傷の痛みを堪えていたというのに更なる傷を受けたルイスの聞くに耐えない悲鳴が部屋に響く。
「ルイス!」とカルヴァートが己の元保護対象の名を呼んだ。
ヴェルノは振り返る。この男もまた、哀れな奴だ…と。
一度は城を逃げ、海賊に成り下がり、裏切った男だと言うのに。それでもこの愚兄を守ろうとするカルヴァートの忠義心と頑固さに、感心半分呆れ半分といった体で真正面から切りかかってくる男を迎えた。
鈍い銀色に輝く刃はヴェルノに届く前にアイヴィーの渾身の力がこもった蹴りで弾かれる。
「ヴェルノと真白ちゃんに手を出すなら、アタシを倒してからにしなさいよ?」
サングラスの奥にある瞳は笑っていない。
先ほどまでの劣勢が嘘だったかのように、室内にいた海軍の人間は皆、地に伏していた。
腕まで蹴られたのかカルヴァートは利き腕を庇いながらもヴェルノを睨む。
壁に縫われたルイスは俯き、表情を見ることは出来ないけれど痛みを訴え続けている。
真白が人質に取られていたからこそ動かなかっただけで、ヴェルノにとっても、アイヴィー達にとってもカルヴァート達なぞ最初から大した障害ではなかったのだ。
自身の剣を拾い上げ、鞘に戻したヴェルノはなかなか泣き止まない真白に少しだけ眉を下げる。
「何時まで泣いてんだ。」
冷たい言葉とは裏腹に酷く優しげな声だった。
ヴェルノ自身、こんな声が出るのかと内心で驚きつつも真白の濡れた背を撫でる。
首にしがみ付いたまま真白が何かを言っているのだが、いかんせん嗚咽が混じり過ぎて言葉になっていないように思う。
聞き取れないまでも何やら文句らしきものを言われている気がする。だが、まぁいい。
「早く船に戻りましょう?二人とも風邪引いちゃうわ〜。」
アイヴィーの言葉に頷いてヴェルノが歩き出す。
扉が開かれ、廊下に出る際にポツリと真白が呟いた言葉だけはハッキリと聞き取れた。
「さよなら、なのです。」一体それがどういう意味合いなのか。
廊下に出て扉が閉まる瞬間、何かを我慢するように細い腕に力がこめられた。それに返事をするようにヴェルノもまた、抱きかかえる腕に力を入れた。
不思議なことに行きは罠だらけだった廊下は空恐ろしいほど静かだった。
罠は一つも作動せず、結局廊下の入り口だった両開きの扉に平穏無事に到着してしまったのだ。
ディヴィが強く扉をノックすると一拍置いて勢いよく扉が開かれる。
見慣れた船員達がヴェルノ達を迎え入れ、そしてヴェルノに抱えられている少女に硬直した。誰だ?と全員が首を傾げ、戻って来た七人を見て、少女の正体に誰もが気付く。
「帰るぞ野郎共!」
ヴェルノの言葉に全員が雄叫びを上げた。まだ城すら出ていないのに、もう宴の話をし出す船員達。
その声を聞いた真白が泣きながらも小さく笑ったのを知るのはヴェルノだけだった。